高倉健や菅原文太と並ぶ昭和を代表する俳優・鶴田浩二ですが、芸能界での華々しい活躍の反面、寂しい生い立ちや家族エピソードも話題です。
今回は鶴田浩二の本名と韓国人説、実家や家族(父親・母親・兄弟)エピソードを紹介します。
鶴田浩二のプロフィール
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名前:鶴田 浩二(つるた こうじ)
生年月日:1924年12月6日
没年月日:1987年6月16日(62歳没)
出身地:兵庫県西宮市
身長:172cm
鶴田浩二は、昭和を代表する映画俳優のひとりです。
大正13年に兵庫県西宮市に生まれ、14歳の時に俳優に憧れて当時の時代劇スター・高田浩吉の劇団に入団して俳優業をスタートさせました。
1948年に松竹に入り、いくつかの映画での端役を経て、長谷川一夫主演の松竹映画「遊侠の群れ」で俳優として本格デビューを果たしました。
1949年には「フランチェスカの鐘」で初主演を飾り、1950年代以降もヒット作を連発。
甘いマスクにアンニュイな雰囲気があるルックスで多くの人を虜にし、昭和初期を代表するアイドル的スター俳優へと成り上がりました。
芸能雑誌『平凡』や『明星』の人気投票では、錚々たる面子に大きく差をつけて第1位に輝き、ブロマイドの売上でも第1位の人気を誇りました。
その人気は凄まじく、当時のエピソードによると鶴田浩二が花道を通る間に、真っ白な着物が女性ファンの口紅で真っ赤に染まるほどだったといいます。
昭和20年代の日本映画界のスターであり、甘いマスクを活かした2枚目はもちろん、戦争映画や任侠映画など幅広いジャンルで様々な役柄を演じ切る演技派俳優としても評価されていました。
また、歌手としても活躍し、1970年12月25日にリリースしたシングル「傷だらけの人生」が大ヒットを記録。
1971年の「第13回 日本レコード大賞」大衆賞、「第4回 日本有線大賞」大賞を受賞しており、曲をもとにした映画も公開されました。
ここでは、そんな昭和の大スター・鶴田浩二の本名と韓国人説、実家や家族(父親・母親・兄弟)についてまとめました。
鶴田浩二の本名
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鶴田浩二の本名は、「小野 榮一(おの えいいち)」です。
14歳の時に高田浩吉の劇団に入団して俳優業をスタートさせた鶴田浩二は、師匠である高田浩吉の名前から1字もらって「鶴田浩二」の芸名で活動を始めました。
「鶴田浩二」として多くの人に愛され、1987年6月16日に62歳で亡くなった後、鎌倉のお墓には本名の「小野榮一」の名前と同じ大きさで「鶴田浩二」の名も刻まれています。
鶴田浩二と韓国の関係
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鶴田浩二の韓国人説・韓国ハーフ説など、韓国との関係について噂する声がありますが、鶴田浩二は右派として知られており、韓国との関連は見つかりませんでした。
生前は右派的発言を繰り返し、歌手として軍歌を歌うことも多く、右翼の街宣車からは彼の曲が流されることも多かったといいます。
その一方で、戦争責任者に対しては批判どころか憎んでいるような発言もあり、「東條英機は切腹するべきだ」、「特攻隊は外道の戦術」と発言していました。
鶴田浩二は日本の元海軍軍人
鶴田浩二は、日本の元海軍軍人です。
1953年の映画「雲ながるる果てに」で主演を務め、若き特攻隊員を演じたため、特攻隊の出身とされていました。
しかし、事実としては元大井海軍航空隊整備科予備士官で、出撃していく特攻機を見送る立場にありました。
戦後は、俳優として得た私財を投じて戦没者の遺骨収集に力を注いだり、日本遺族会に莫大な金額を寄付したり、戦争体験を話す講演活動なども行なっていました。
この通り、かつては海軍軍人だった鶴田浩二は、純粋な日本人です。
韓国人や韓国ハーフの噂が流れたこともありますが、出自は明確のため、デマと言えるでしょう。
鶴田浩二の実家
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鶴田浩二の戸籍上の出身地は静岡県浜松市ですが、生まれは兵庫県西宮市で、その後、静岡県浜松市に移り住みました。
鶴田浩二が活躍していた昭和20年代は、現在と比べると個人情報の取り扱いがとても緩く、スター俳優でも実家の住所が雑誌などで公開されるという衝撃の時代でした。
鶴田浩二の生家や実家などは現在は情報が残っていませんが、お墓が神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にあるため、生前は鎌倉周辺に住んでいた可能性が高そうです。
鶴田浩二の家族① 父親や母親との家族エピソード
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ここからは、鶴田浩二の家族についてお届けします。
鶴田浩二の家族構成は、父親・母親がいることはわかっていますが、兄弟の有無は不明です。
鶴田浩二の家族:父親
鶴田浩二は1924年に兵庫県西宮市に生まれましたが、当時、両親は結婚していませんでした。
というのも、父親の実家が結婚に反対していたからで、結局、実の父親と母親は結婚することなく、母親が鶴田浩二を連れて静岡県浜松市に移住し、別の男性と結婚しました。
義理の父親は働かず、博打好きで、家にお金を入れることはなかったといいます。
父親は鶴田浩二がまだ幼児だった頃から家の貯金箱を割って金を奪い、鶴田浩二が映画スターになってからも、博打のための金を借りに来るような人だったそうです。
鶴田浩二の家族:母親
義理の父親が働かず、母親は生計を立てるために遊郭で働くしかなかったといいます。
遊郭に入ってしまえば息子の面倒を見ることができないため、鶴田浩二は母方の祖母の家に預けられました。
そんな祖母は子供を産んだ時の栄養失調が原因で失明していたそうで、家も狭い長屋で、洗面器で米を炊くなど貧乏暮らしだったといいます。
程なく祖母が亡くなり、まだ幼い鶴田浩二は家でたった1人の生活となりました。
「来てはいけない」と言われていた遊郭に母親恋しさに足が向くこともあった鶴田浩二でしたが、客を相手にしている仕事中の母親には相手にしてもらえず、寂しい幼少期だったようです。
母親との思い出
実の父親とは遠く離れて暮らし、義理の父親は博打好きで働かない。そして母親は家計を支えるために遊郭で働き、祖母との貧しい暮らしを送ってきた幼少期の鶴田浩二。
祖母が生きている時はごく稀に母親が家を訪ねてくることがあり、お土産にお菓子を持ってきてくれたこともあったようです。
幼い鶴田浩二はお菓子よりも母親が家にいることが嬉しく、本当は無邪気に甘えたかったものの、甘え方がわからず、絵本を読むふりをして母親の様子をうかがっていたといいます。
母親が帰る頃、やっと母親に縋り付いて「お母さん、行かないで」と泣くと、母親は「じゃあ、かくれんぼしよう」と言い、鶴田浩二が喜んで隠れている間に家を出て行ってしまったそう。
母親の後を裸足で追い掛けてもその姿はなく、眼に映るのはオレンジに染まる夕日ばかり。
こうした思い出から、鶴田浩二は大人になってからも嫌いなものとして「祖母と2人で見た夕日」を挙げています。
こうした愛に飢えた幼少期を送った鶴田浩二は、幼心に「何も、信じない。何も、期待しない。この世は無情で、救いなどない」と悟りました。
しかし、大人になってからの鶴田浩二は、当時について「もしかしたら、母は泣きながら追いかける私の姿を、電信柱の影から見ていたかもしれない、涙を流しながら」とも語っています。
数少ない母親との思い出を、ずっと大事にしていることがうかがえますね。
鶴田浩二の家族② 兄弟がいるかは不明
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ここからは、鶴田浩二の兄弟についてお届けします。
鶴田浩二に兄弟がいる、という情報はありません。
過去に、鶴田浩二が「弟」と称していた俳優・北斗学(北十学)は、若い頃の恋人との間に生まれた実の息子です。
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北斗学と鶴田浩二は、1972年に公開された映画「昭和残侠伝 破れ傘」で共演しています。
この作品は佐伯清監督、高倉健主演の東映製作の任侠映画で、1965年〜1972年にかけて製作された昭和残侠伝シリーズの第9作(最終作)です。
高倉健演じる主人公・花田秀次郎が、出所後に兄弟分の寺津力松(安藤昇)のもとを訪れ、そこでの縄張り争いで敵対する組へ殴り込みをかける物語が描かれました。
鶴田浩二は時雨弥三郎役、北斗学は早川清次役を演じています。
鶴田浩二に兄弟はいない
当初は兄弟として売り出した北斗学は実際には実子であり、鶴田浩二の兄弟については彼以外に情報がありませんでした。
鶴田浩二が実父と母親との間に生まれた長男だとすれば、母親は浜松市に移住してすぐに遊郭で働き始めているため、兄弟が生まれる時間はなかったでしょう。
預けられていた祖母の家でも、祖母亡き後は1人での生活が始まったことが判明しているため、一緒に育った兄弟はいなかったと思われます。
まとめ
鶴田浩二の本名と韓国人説、実家や家族についてお届けしました。
高倉健や菅原文太の先輩であり、昭和を代表する映画スターだった鶴田浩二が遺した作品は、これからも多くの人に愛され続けることでしょう。