曽我ひとみの現在!母・夫ジェンキンス・娘・孫など家族も紹介【北朝鮮拉致被害者】

はじめに

拉致され長期間北朝鮮での苦しい生活を強いられていた曽我ひとみさんですが、家族や現在の生活が気になりますよね。

 

今回は北朝鮮の拉致問題、曽我ひとみさんの拉致~帰国の経緯、家族(母・夫・娘・孫)、現在をまとめてみました。

北朝鮮拉致問題とは?被害者は曽我ひとみさんを含む17人

出典:https://www.1242.com/

 

北朝鮮拉致問題とは、1970年代~1980年代に、北朝鮮の工作員や土台人(在日朝鮮人の特定の層)、またはよど号グループメンバーなどにより、日本人が日本や欧州で拉致された問題です。

 

北朝鮮は、長い間拉致事件への関与を否定してきました。

 

しかし2002年、平壌で行われた日朝首脳会談で、日本人の拉致を認めました。さらに、謝罪と再発防止を約束しました。

 

日本政府が認定している拉致事案は12件で、拉致被害者は17人です。

 

その17人とは、以下の方々です。

 

久米裕さん、横田めぐみさん、田口八重子さん、濱本富貴惠さん、地村保志さん、蓮池薫さん、奥土祐木子さん、市川修一さん、増元るみ子さん、曽我ひとみさん、曽我ミヨシさん、松木薫さん、石岡亨さん、有本恵子さん、原敕晁さん、田中実さん、松本京子さんです。

 

しかし、北朝鮮政府側は男性6人、女性7人の計13人についてのみ、認めています。

 

拉致の方法で報じられている手口

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北朝鮮が日本人を拉致した手口には、複数のやり方があったようです。

 

① 日本海海岸(福井県・新潟県)や東シナ海(鹿児島)などに工作員を上陸させ、通りかかった若者を拉致する方法。

 

② 日本国内に潜入している工作員や土台人がターゲットとして決めた人物に接近し、言葉巧みに誘い出す方法。

 

③ 「仕事を紹介する」と日本国外に在留や居留している日本人を誘拐する方法。よって、北朝鮮入国までは本人の同意を得られていると考えられます。

 

④ 日本沿岸で工作活動をしている時、工作員が見られたと思い、目撃者を強引に拉致する方法。

 

⑤ 現地に土地勘のある、在日朝鮮人の土台人が関わっている可能性が高いこともあります。理由として、自動車の調達や潜伏の際の監禁場所の手配などが必要になるため。

 

曽我ひとみさんのプロフィールや拉致~帰国までの経緯

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曽我ひとみさんは、拉致される前は佐渡の介護施設で看護師をしていました。

 

拉致された1978年(昭和53年)8月12日、新潟県真野町で母親と一緒に買い物に行っていたそうです。

 

帰り道、後ろからついてくる存在に気づき、曽我ひとみさんが振り返ると3人の男が距離を置いて歩いていたんだとか。

 

家までわずか100メートル、というところで3人組の男たちが走ってきて襲い掛かってきたそうで、手足を縛られ袋を頭から被せられて担がれたようです。

 

川まで連れていかれると、女の人の声が聞こえたそうです。

 

その人物が話している日本語に少し違和感があったとのことで、この女こそ、後に国際指名手配された北朝鮮の工作員「キム・ミョンスク」でした。

 

小舟に乗って沖まで運ばれると、次は待機していた大きな船に乗せられました。そこで袋は外されたものの、暗い部屋に押し込められ、恐怖で声を殺して泣いたそうです。

 

船が北朝鮮に着くと、今度は車に乗せられ平壌に向かいました。

 

その車内で母親について尋ねたところ、車に乗っていた男が「お母さんは日本で元気に生活しているから安心していい」と言ったそうです。

 

拉致後、平壌市内に1978年(昭和53年)8月18日~1980年(昭和55年)頃まで住んでいたようで、その時には横田めぐみさんと同居されていたそうです。

 

 

出典:https://www.fnn.jp/i

 

一緒に生活をしていた横田めぐみさんと日本の話をよくしていたそうで、横田めぐみさんとの生活は北朝鮮で唯一の安らげる瞬間だったそうです。

 

このままでは、北朝鮮の人が何を話しているのか分からない、そして自分の気持ちも伝えられないため、曽我ひとみさんは憎い北朝鮮の言葉を覚えるしかありませんでした。

 

指導員に「いつ日本に帰れるのか」「母親はどうしているのか」などと聞いても、指導員からの返事は「朝鮮語を上手になれば日本に帰してやる」というものだったそう。

 

このような絶望な生活に、「死んだほうがマシだと思うほど辛かった」と明かしています。

 

北朝鮮での生活

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拉致被害者は、北朝鮮の一般庶民に比べると優遇された生活を送っていたとされています。

 

例えば、招待所では寿司や酢豚などの料理が用意され、外国映画を見ることができたりしたそうです。しかし、自由はなく外出も許されなかったそうです。

 

このことに関して、曽我ひとみさんは「一般の朝鮮人との接触はない」と証言されています。

 

他にも、同じ拉致被害者である蓮池薫さんは、「招待所にいた時は賄いつきだった。招待所にいる間は、名所観光や娯楽映画などを見たりした」とも話されています。

 

結婚

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1980年(昭和55年)8月、ジェンキンスさんと結婚した曽我ひとみさん。

 

2人の出会いは、北朝鮮政府からの紹介だったようで、出会って38日後に結婚というスピード婚でした。

 

結婚した2人の間には、子供も授かりました。「生活水準は厳しいものでしたが、生来の器用さでベッド・椅子・おもちゃの車など作ってくれました」と語っています。

 

帰国

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2002年(平成14年)、曽我ひとみさんは、日本に帰国することができました。

 

1人で帰国することをためらっていた曽我ひとみさんでしたが、夫・ジェンキンスさんが「君は日本に行くべきだ」と背中を押してくれたそうで、その言葉で帰国を決意できたそうです。

 

曽我ひとみさんが帰国した際なぜ1人だったかというと、ジェンキンスさんと娘2人は、北朝鮮が与えた虚偽情報によって日本へ行くことを拒否していたそうです。

 

曽我ひとみさんの他にも、地村保志さん・地村(浜本)富貴恵さん夫妻、蓮池薫さん・蓮池(奥土)祐木子さん夫妻が帰国されました。

 

曽我ひとみさんの家族① 母・曽我ミヨシさん 

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曽我ひとみさんの母親は、曽我ミヨシさんといいます。

 

1978年(昭和53年)8月12日、曽我ひとみさんと一緒に買い物帰りに失踪しています。

 

日本政府は北朝鮮に拉致されたと認定していますが、北朝鮮側は母の曽我ミヨシさんに関しては北朝鮮への入国はなく拉致の関与を否定しています。

 

そのため、日本と北朝鮮の交渉は難航しており、曽我ミヨシさんは現在も消息不明のままです。

 

曽我ひとみさんの家族② 夫・ジェンキンスさん 

出典:https://www.zakzak.co.jp/

 

プロフィール

チャールズ・ロバート・ジェンキンス

生年月日:1940年2月18日

没年月日:2017年12月11日

生誕:アメリカ合衆国 ノースカロライナ州

 

 

ジェンキンスさんは、中学卒業後、15歳でノースカロライナ州の軍に入隊志願し、規定の年齢より下回っていたものの、州兵登録が受理されました。

 

ノースカロライナ州軍から連邦軍へと転属が許可され、陸軍第1騎兵師団に配属され、1960年~1961年まで在韓米軍の任務を行っていました。

 

そして1964年、欧州軍へ転属後、また在韓米軍に派遣されます。

 

在籍は陸軍軍曹でしたが、2004年に不名誉除隊処分を受け、二等兵に降格しています。

 

逃亡

出典:http://yoside.cocolog-nifty.com/

 

なんとジェンキンスさんは、朝鮮半島軍事境界線に駐屯していた時、アルコール依存症になっていたそうです。

 

その頃のジェンキンスさんの地位は下士官で、ベトナム戦争に派遣されるという噂を聞いたそうです。

 

ベトナム戦争は悲惨な死傷者を出した戦争ということで現在知られていますが、その戦争に派遣されるという重圧からアルコールに頼っていたようです。

 

そして、部隊に「騒音のする場所を見つけた、偵察に向かう」と言って偵察に行ったきり、戻らなかったそうです。

 

その後、ジェンキンスさんは北朝鮮軍に投降し身柄を確保されていましたが、捕虜ではなく政治亡命者として扱われていました。

 

投降した理由については、「ソビエト連邦経由の捕虜交換など早期に帰国することは難しくないと考えていた」ということと、軍務に不満も感じていたそうです。

 

しかし、その考えは間違っていたことにすぐ気づくことになります。

 

ジェンキンスさんの動向はアメリカ軍や内外に秘匿にされ、さらに北朝鮮政府は、ジェンキンスさんにイデオロギーの再教育をするなどし、帰国させる意思がないことを示しました。

 

ジェンキンスさんは、「すぐに自らの行いを懺悔した」と後に告白しています。

 

 

北朝鮮での生活は小さな家屋内で米国籍の人間3名と一緒に軟禁状態だったようで、頻繁に拷問も受けていたそうです。

 

英語教師の仕事や国策映画への出演を命じられていたようです。しかし、この映画に出演したおかげで、消息不明とされていたジェンキンスさんの姿をアメリカに伝えることになりました。

 

けれど、アメリカ政府はこの事実を認めず、「ジェンキンス軍曹の動向は不明」とする公式見解を1996年まで続けました。

 

帰国

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2002年の日朝首脳会談で北朝鮮政府が拉致被害者の存在を認めて以降、妻の曽我ひとみさんが日本に帰国しました。

 

しかし、ジェンキンスさんは自分が逃亡兵ということもあり、帰国することをためらっていました。

 

そこで、日本政府がアメリカ政府に、軍事会議で行う判決を穏当なものにするとの約束を取り付けたことから、2004年7月9日、インドネシアに治療という名目で2人の娘と出国します。

 

そして、7月18日に妻の曽我ひとみさんがいる日本に入国されました。

 

 

その後の軍事会議の結果、軍曹から二等兵に降格処分、不名誉所帯、禁固30日という判決が下されました。ただし、模範囚として5日間も予定より早く釈放されています。

 

 

出典:https://image.space.rakuten.co.jp/

 

帰国後は、妻の曽我ひとみさんの実家でもある佐渡市の観光施設の職員の仕事に就きました。

 

曽我ひとみさんによると、「日本語ができないハンデがあっても仕事だけは続けてきました。嫌な顔もせず、お客様の要望に答えていたと聞いてます」と明かしています。

 

観光施設での働きぶりは、一度も遅刻もなく非常にまじめにされていたようです。同僚との関係も良かったようで、ジュースやアイスをおごっていたり、雑談をする姿もあったそうです。

 

観光客にも人気があり、ジェンキンスさんがいるかなど電話の問い合わせもあるなど、アイドル的な存在だったそうです。

 

日本政府に申請をしていた永住許可が2008年7月15日に与えられ、帰化も考えていることをインタビューで答えています。

 

死亡





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