拉致被害者の1人・有本恵子さんは北朝鮮が死亡と断定したものの、不可解な点が多く、家族は現在も帰りを待っています。
今回は拉致被害者・有本恵子さんの出身高校や大学、拉致の経緯や手紙、父と母など家族と現在をまとめました。
この記事の目次
有本恵子さんのプロフィール~出身高校や大学も紹介
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名前 : 有本恵子(ありもと けいこ)
朝鮮名:キム・ヒョンスク
生年月日 : 1960年1月12日生
出身地 : 神戸市長田区
拉致当時:神戸外国語大学の学生
有本恵子さんは、有本家の一男五女の三女として生まれました。両親は鉄工所を経営しており、朝から晩まで働きづめだったそうです。
恵子さんが高校1年の頃、父の明弘さんの妹の家に住み始めます。(出身高校は不明)
そして、神戸外大を卒業する直前の3月、恵子さんは「半年だけでいいからイギリスに行かせて」と留学希望を打ち明けたそうです。
恵子さんの両親は「あかん」と反対したものの、泣いて頼む恵子さんに押し切られたのだとか。
そして、1982年4月10日、恵子さんは伊丹空港からロンドンに出発します。これが恵子さんと両親との別れとなるのでした。
有本恵子さん拉致事件の経緯① 帰国をキャンセル
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ロンドンでホームステイしながら語学学校に通っていた恵子さん。半年の予定がもう半年と延び、翌年の1983年6月に帰国を知らせる手紙が届きます。
有本恵子さんが帰国予定だった1983年8月9日、当日になって、「仕事が見つかる 帰国遅れる 恵子」という電報が実家に届きます。
航空会社に確認すると、予定していた便をキャンセルしていたことが分かりました。
その後、ギリシャのアテネから「仕事をしている」という手紙が届いていますが、恵子さん本人が出したものかどうか定かではなく、この手紙が最後となっています。
有本恵子さん拉致事件の経緯② 「よど号」グループによって北朝鮮に拉致
1983年7月頃、ヨーロッパにいた有本恵子さんは忽然と姿を消します。
後に、「よど号」グループによって北朝鮮に拉致されたことが明らかになりました。
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有本恵子さんは当時、イギリスでの留学を終えてヨーロッパを旅行していたそうです。
そんな中、特殊機関メンバーの1人が有本恵子さんに接触し、「工作の過程で共和国に行ってみないか」と誘うと、「一度行ってみたい」と有本恵子さんは答えたそう。
その後、特殊機関が1983年7月15日に平壌へ連れて行ったとしています。
北朝鮮によれば、北朝鮮に入国後、「資本主義社会とは異なる制度の中で暮らしてみたい」と有本恵子さんが希望したそうです。
そして、入国して1年後から、有本恵子さんは特殊機関の学校で日本語を教えていたそうです。
北朝鮮は、仕事をしながら世界を見て回れると思っていた有本さんを騙して、同じく獲得した男性と結婚させるために北朝鮮に連れて行ったとされています。
有本恵子さん拉致事件の経緯③ 北朝鮮にいる旨の手紙が届く
手紙が送られてきた経緯とは
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有本恵子さんの両親は外務省や警察に相談に行くも、まともには取り合ってくれなかったそうで、そのまま時間だけが流れていったと言います。
そして、行方不明になってから約5年後の1988年9月6日、有本恵子さんの神戸市の自宅の電話が鳴りました。
電話の相手は、1980年に22歳でスペインに渡ったまま行方不明となっていた石岡亨さんの母親でした。
実は、石岡亨さんの実家に手紙が届き、有本恵子さんが北朝鮮にいることが判明したのです。
電話の数日後、札幌市の石岡さんの実家から手紙のコピーが有本さん宅へ届いています。
手紙の内容とは
手紙はポーランドから送られたもので、封筒の裏には「石岡より 平壌にて」と書かれていました。
その手紙には、有本恵子さん・石岡亨さんの写真や住所、同じく拉致被害者と言われている松木薫さんの名前などが書かれていたそうです。
そして、女性の写真と写真が同封されていました。有本恵子さんと思われる女性と、石岡亨さんとの間の子供と思われる、腹ばいで笑みを浮かべる赤ちゃんの写真も添えられていたんだとか。
さらに手紙には、
「3人一緒に北朝鮮で助け合って生活しています。生活費もこの国より支給されて生活しています。」
「長い間の連絡の出来なかった事をお許し下さい。」
と記されており、有本恵子さんたちが北朝鮮に居るという確実な証拠となりました。
日本国内に入ってきた証拠であるため、有本恵子さんの両親は警察庁と外務省にこの手紙を提出したそうです。
そして2002年3月11日、拉致実行犯の1人である八尾恵さんの証言もあり、行方不明となっている有本恵子さんについて、政府は北朝鮮による拉致事件と認めました。
恵子さんの母親は写真を見て、「ふっくらとした顔がすっかりやせこけ、目も落ちくぼんでいたけど、確かに娘の写真でした」と話しています。
そして、便せんが細かく折り畳まれていたことから、「何とか北朝鮮から日本に届いてほしいと必死だったのだろう」と、有本恵子さんたちの気持ちを推し量っている様子だったそうです。
有本恵子さん拉致事件の経緯④ 結婚・出産・そして死亡報告
1985年12月27日、一緒に仕事をしていた石岡亨さんと本人の自由意思で結婚し、翌年娘を生んだという有本恵子さん。
娘の名前は「リ・ヨンファ」と名付けられ、招待所で幸せな家庭生活を送っていたとされていました。
しかし、1988年11月4日夜、チャガン(慈江)道ヒチョン(熙川)市内の招待所にて、睡眠中に暖房用の石炭ガス中毒で子供を含む家族全員が死亡したとされています。
家族と共にヒチョン(熙川)市ピョンウォン(平院)洞に葬られたものの、1995年8月17~18日の大洪水による土砂崩れで遺骨は流出したと北朝鮮は説明しています。
引き続き探しているものの発見されていないようで、遺品は写真が遺っているのみだそうです。
しかし、死亡したとされる1988年以降から最近まで、多数の生存情報がある有本恵子さん。
また、有本恵子さんに関する北朝鮮からの情報には不審な点が数々あり、家族会・救う会は矛盾点や疑問点を政府に提出しています。
有本恵子さん拉致事件の実行犯とは
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有本恵子さんの拉致については、「よど号」ハイジャック犯の柴田泰弘の妻であった八尾恵さんが拉致の事実を証言しています。
八尾恵さんは2002年3月12日、「私が有本恵子さんを騙して北朝鮮に連れていきました」と東京地裁で証言しているので、間違いないでしょう。
それによれば、「よど号」ハイジャック事件の魚本公博(旧姓:安部)被疑者が、ロンドンに留学していた有本恵子さんを北朝鮮に連れ込んだようです。
その後、警視庁公安部は「よど号」犯人の魚本公博を国際手配し、北朝鮮に対し、有本恵子さんの所在の確認と身柄の引き渡しを要求しました。
拉致からすでに、20年近く経った後のことでした。
有本恵子さんの家族(父・母・兄弟)について
拉致された有本恵子さんの家族には、父親の明弘さん(91歳・2020年時点)と母親の嘉代子さん(94歳・2020年時点)がいます。また、恵子さんには兄弟がおられるようです。
有本恵子さんの母である嘉代子さんは94歳という高齢で、政府が認定している拉致被害者の家族の中でも最高齢とされています。
嘉代子さんは「私も年を取って、いつどうなるか分からない。1日でも早く解決してもらわないといけない」と話しているそうです。
父の明弘さんも、「安倍晋三総理大臣はアメリカのトランプ大統領との協力関係を深めて、年内にも拉致問題解決につなげてもらいたい」と話しており、1日も早い解決が望まれています。
有本恵子さんの実家では、現在でも恵子さんの誕生日には、父親と母親、そして恵子さんの兄弟たちが集まり、ケーキや赤飯等を用意して誕生日をお祝いしているそうです。
恵子さんとともに祝える日が来ることを、待ち望んでいることでしょう。
恵子さんの拉致事件からあまりにも長い歳月が過ぎており、1日も早い解決と恵子さんの帰国を願わずにはいられません。
※追記:有本恵子さんの母が2020年2月3日にお亡くなりになられました。
北朝鮮による拉致被害者で、神戸市出身の有本恵子さん=失踪当時(23)=の母、有本嘉代子(ありもと・かよこ)さんが3日午後、心不全のため死去したことが分かった。94歳。神戸市兵庫区出身。自宅は神戸市長田区。支援団体の「救う会兵庫」が6日、発表した。
有本恵子さん拉致事件の現在① 父親にトランプ大統領から手紙が届き話題に
2019年5月、拉致被害者の有本恵子さんの父・明弘さん宛てに、米国のトランプ大統領から手紙が届き、話題となりました。
実は、拉致被害者家族会は、2017年11月と翌年5月の2回、トランプ氏と面会しています。明弘さんはその度に米大使館を通して、トランプ氏宛てに手紙を送っていました。
政府関係者らによると、5月の面会ではトランプ氏が明弘さんに「(手紙を)直接渡してほしい。必ず読む」と約束したそうです。
そしてその言葉通り、被害者帰国への後押しを切望する明弘さんの私信に応えた形で、外交ルートを通して返信が日本側に届きました。
手紙は、日本政府関係者から明弘さんに手渡されたそうで、拉致事件解決への尽力を誓う内容で、直筆の署名が添えられていました。
直筆の英文で「明弘、あなたのために全力を尽くしています。安倍(晋三)総理も同じです。あなたはきっと勝利するでしょう。お会いできて良かったです!」
明弘さんは「米国大統領が手紙をくれるなんて」と驚き、「恵子がいなくなってから、苦しい時期もあったが手紙をいただいて解決が近づいているように感じた」と、涙を拭っていました。
母の嘉代子さんは「今が解決へ最後のチャンス。全拉致被害者が日本に戻ることを願います」と話していました。
有本恵子さん拉致事件の現在② 拉致問題解決へ現在も家族が奮闘中
前述の通り、1985年に石岡さんと結婚して一児をもうけた有本恵子さんは、1988年にガス中毒で一家3人全員が死亡したと北朝鮮側は説明しています。
しかし、北朝鮮側の説明には矛盾や疑問点が多く、両親らは現在も事件解決に向けて懸命に活動しています。
拉致被害解決に向けて
米朝首脳会談では、トランプ米大統領が金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長に対して拉致問題の解決を働きかけており、期待がかかっています。
「今年こそ拉致問題は解決する。元気なうちに被害者は全員帰ってくる」という言葉は、被害者家族の希望にもなっていることでしょう。
恵子さんの母・嘉代子さんは、「23歳で拉致されて、もう59歳。北朝鮮で長い間苦労してきた。残りの人生は豊かな日本でゆっくり過ごさせたい」と娘を思いやっています。
現在でも毎朝晩、自宅の神棚に手を合わせて恵子さんと拉致被害者全員の1日も早い帰国を願い続けているそうです。
恵子さんの父・明弘さんは、拉致解決のために日米朝3カ国による日本国内での首脳会談開催を求めて運動しています。
「日本が主体的に働きかけ、日本も交えて拉致も含めた問題を解決すべき」と語っています。
有本恵子さんを始め、拉致被害者となった方とその家族の方々が早く平穏に暮らせる日が来ることを多くの人が願っていることでしょう。
まとめ
ヨーロッパに滞在中に行方不明となり、後に北朝鮮に拉致されたことが判明した有本恵子さんについて、拉致の経緯や家族の元に届いた手紙とその後、そして現在をまとめてみました。
有本恵子さんが北朝鮮に拉致されてから、2020年現在、すでに36年という途方もない歳月が過ぎています。
有本恵子さんのご両親を始め、他の拉致被害者の家族も高齢となっており、一刻も早く事件が解決され、日本で再会できることが望まれます。
「日本でゆっくり過ごさせたい」という有本恵子さんの親心が、早く実現することを願わずにはいられません。