世界三大美女として有名な中国の楊貴妃ですが、その美女エピソードや最期、日本に残る伝説にも注目が集まっています。
今回は楊貴妃の顔の特徴や美女エピソード、生い立ち~最期や死因などその生涯、日本に残る伝説を紹介します。
楊貴妃とは
楊貴妃(よう きひ)
生年月日~没年月日:719年6月22日-756年7月15日
(開元7年6月1日-至徳元載(元年)6月14日)
楊貴妃は、姓は楊、下の名前は玉環と言います。
普段私達が呼び慣れている「貴妃」というのは皇妃の順位を表している称号であり、名前ではありません。
楊貴妃は、中国の後宮で2番目の奥様という位を表していることになります。
楊貴妃の顔の特徴とは
楊貴妃の美しさを伝える言葉は数多く残っており、現在でも美貌を称える時にその言葉を用いて例えられるなど、美しさの象徴として受け継がれています。
特に、白居易が残した「長恨歌」という詩の中では、
「楊貴妃が振り返って笑えば、後宮の美人たちも色あせてしまう」
と、宮殿の中にいる美女たちとは一線を画するということを強調したり、
「芙蓉のような顔、柳のような眉」
などと、美しい花の代表である芙蓉(蓮の花)に例えられ、美しいアーチを描いた眉も絶賛されています。
ちなみに、楊貴妃は白い肌でふっくらしていたという説もありますが、真相は分かっていません。
当時は、たくさんの食べ物を食べられることが富の象徴で憧れだったため、楊貴妃の絵もふっくらと描かれているものがあるものの、実際は痩せていたとも言われています。
時代や状況が変わると美の概念も変わると言われるので、そうした違いは多少なりともあるかもしれませんね。
楊貴妃の美女エピソード
楊貴妃は西施、王昭君、貂蝉とともに「中国の四大美人」として有名で、古くから美人の代名詞として名前が挙げられている女性ですよね。
さらに、中国だけでなく、クレオパトラ、小野小町と同じく、「世界三大美女」とも言われています。
楊貴妃のその美しさに、時の皇帝・玄宗(げんそう)皇帝もメロメロになったようで、玄宗皇帝の息子・寿王の嫁として迎え入れたにも関わらず、その後自分の妻としてしまうほどでした。
現代もなお、楊貴妃の美しさは有名で、楊貴妃を題材にした作品ではその国を代表する美人が抜擢されることが多いようです。
<横浜中華街映画祭2019>
— 横浜中華街映画祭 (@YchinatownFF) September 19, 2019
「楊貴妃 Lady Of The Dynasty」上映決定!
ファン・ビンビンを主演に、傾城の美女と呼ばれた楊貴妃の波乱万丈な人生を描く。「HERO」「LOVERS」「王妃の紋章」に続くチャン・イーモウ監督の歴史スペクタクル巨編。
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ちなみに、2015年には絶世の美女と言われる中国人女優のファン・ビンビンさんが、映画「楊貴妃 Lady Of The Dynasty」で楊貴妃役で出演しています。
ファン・ビンビンさんもたくさんの人が見惚れるお顔ですが、昔の人もきっとこんな風に「美しい…」と楊貴妃に憧れていたのでしょうね。
また、日本と中国の共同制作ドラマ「伝説の美女 楊貴妃」では、藤原紀香さんが楊貴妃役として出演されていました。
やはり、美しい女性のみがこの楊貴妃という人物を演じることができるのですね。
楊貴妃の生涯 【生い立ち~自殺まで】
楊貴妃の生涯は波乱万丈だったようで、これまでにもたくさんの作品の題材になってきました。
当時の中国の蜀州(しょくしゅう)という場所が出身地で、皇族などではなく、身分の低い家の出身だったとも言われています。
735年(開元23年)、楊貴妃が16歳の時に玄宗皇帝と武恵(ぶけい)妃との子である寿王(じゅおう)の下にお嫁にいくこととなりました。
ちなみに、玄宗皇帝には男の子供が30人、女の子供が30人、合計60人いたと言われており、寿王はその中の18番目の子だそうです。
皇帝の息子である皇子との結婚ということなので、楊貴妃の一族はある程度の生活が保証され、良い身分となったのではないでしょうか。
737年、玄宗皇帝が愛した武恵妃が亡くなり、楊貴妃は後宮に入って、皇后と同じ扱いを受けるようになりました。
この時、玄宗皇帝は息子である寿王の妻を奪ったということにはならぬよう、一度楊貴妃を出家させ離別させたことにし、後宮に迎えました。
当時楊貴妃は21歳、玄宗皇帝は55歳で34歳もの年の差がありました。
玄宗皇帝
生年月日~没年月日:712年9月8日-756年8月12日
唐の第6代皇帝
玄宗皇帝はとにかく楊貴妃を寵愛し、楊貴妃が望まぬとも当時の取り巻きは楊家の者を特別扱いしたそうです。
楊貴妃を喜ばせると玄宗皇帝も喜び、役人が昇進するなどもあり、たくさんの使者が楊家への訪問や贈り物に列をなしたと言います。
楊一族の中には、楊貴妃の又従兄弟にあたる楊国忠(ようこくちゅう)という人物がいました。
しかし、玄宗皇帝にも楊貴妃にも大変気に入られ、なんと楊貴妃の養子にもなった安禄山(あんろくざん)とは仲の悪い関係にあったようです。
755年、ついに楊国忠と安禄山は激しく対立し、安史の乱が起こります。この乱で、楊国忠は日頃から恨みを持っていた陳玄礼や兵士たちに殺されました。
それだけにとどまらず、楊国忠の親族であり楊国忠の謀反に関係しているとされた楊貴妃も、自殺することを命じられ、その生涯を閉じました。
楊貴妃の死因とは
楊貴妃の死因は、縄で首をくくって死んだ「縊死(いし)」です。
楊貴妃には白絹が渡され、梨の木にくくって首を吊ったと言われています。
その死は自殺を要求した陳玄礼らによって確認され、死体は郊外に埋められたそうです。
当時の中国では、国の意思や恩に反することは重罪であり、本人が望んだことではなくともその原因となった親族なども処罰・処刑された時代でした。
楊貴妃の最期とは
又従兄弟である楊国忠の謀反ではあったものの、決して楊貴妃は望んでいなかったと言われる安史の乱。
楊貴妃を寵愛した玄宗皇帝は、自殺を強く求める陳玄礼らに対して、「楊貴妃は深宮(宮殿の奥まった場所)におり、楊国忠の謀反には関係していない」と反論したそうです。
しかし、楊貴妃の死を確認しなければ動かないという兵士たちの姿勢により、やむをえず楊貴妃に自殺を命ずることとなりました。
『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死(縄で首を捻られて殺される)させられた。
楊一族の傲慢さが強く、楊貴妃もそういった人物に考えられがちですが、実際はこうして身内の罪に真摯に向き合い、死を受け入れた最期だったそうです。
日本各地に残る楊貴妃伝説
実は楊貴妃には、日本での伝説が数多く囁かれている人物で、そのどれもが確実ではないものの現代に至るまで語り継がれているエピソードがあります。
日本の山口県長門市では、安史の乱の際に側近の者が秘密裏に連れ出し、日本に流れ着いたという伝説もあるほどです。
756年(天宝15年)7月に、向津具半島の岬の西側に唐渡口(とうどぐち)に船が流れ着き、気品のある美女が横たわっていたと言います。
お側の侍女が申すに「このお方は唐の天子、玄宗皇帝(げんそうこうてい)の愛妃楊貴妃と申される。安禄山(あんろくざん)の反乱により処刑されるところを、皇帝のお嘆きを見るに忍びないで近衛隊長が密かにお命を助け、この舟で逃れさせ、ここまで流れ着きました。」と涙ながらに云うたそうな。
なんと命からがら脱出し、日本へたどり着くという、なんともありそうなお話ではないですか。
しかし、長い漂流で息も絶え絶えの楊貴妃を手厚く介抱していたが、そのうち息を引き取り、西の海が見える久津の丘の上に葬ったというのです。
それが、現在の二尊院の境内にある楊貴妃の墓だとか。
他にも、京都の泉湧寺の楊貴妃観音や、和歌山県の龍神村、愛知県の熱田神宮、熊本県の天草など各地に楊貴妃伝説なるものが…。
どれが本当のお話なのかは分かりませんが、その時期や地理的にも本当に楊貴妃は日本に流れ着いていた可能性があるとすると、もしかしたらその末裔が日本にいるかもしれません。
まとめ
歴史上の美女として必ず名前が挙がる、楊貴妃についてよく分かりましたか?
楊貴妃自身は玄宗皇帝に寵愛され大事にされていましたが、楊一族の傲慢さで国を傾けることとなり、最期は自殺させられるなど、波乱の人生を歩んでいたことが分かりましたね。
その美しさが罪だった…なんて言われることもありますが、本当にその美貌だけで傾国させたという、とても魅力的な女性だったようです。
ここで紹介したのは楊貴妃にまつわる話のごく一部なので、気になった方は楊貴妃のロマンスやその生涯についてもぜひ調べてみてください!