「スターにしきの」の愛称で昭和から親しまれている歌手・錦野旦ですが、韓国人説や衰え知らずの現在が話題です。
今回は錦野旦の韓国人説と家族や実家、生い立ちや若い頃、結婚した嫁と子供、現在の活動をまとめてみました。
錦野旦のプロフィール
出典:https://www.nishikino-kikaku.jp/
名前:錦野 旦(にしきの あきら)
本名:錦野 明
旧芸名:にしきの あきら
生年月日:1948年12月14日
出身地:大分県大分市
血液型:A型
アイドル歌手としてデビューし、「スター錦野」の愛称で親しまれる男性歌手の錦野旦。
1970年に「もう恋なのか」でレコードデビュー、続くシングル「空に太陽がある限り」が自身の代表曲となる大ヒットを飛ばして人気を博しました。
スマートなルックスと抜群の歌唱力で若い女性ファンからの人気を集め、デビューした年の年間ブロマイド売上で第1位に輝いたこともあります。
現在もテレビ出演やコンサート、ディナーショーなどで音楽活動を続けている他、卓越したトーク力と気さくなキャラクターでバラエティ番組でも活躍しています。
そんな錦野旦ですが、韓国人説も浮上しています。
実家や家族の情報、若い頃の生い立ち、結婚した嫁と子供のエピソードなど、錦野旦のルーツと私生活をお届けします。
錦野旦は韓国人だった
出典:https://thetv.jp/
錦野旦が韓国人という話は有名です。
男性アイドル歌手として絶大な人気を誇っていた1972年、週刊誌を通じて帰化していることを公表しました。
錦野旦が韓国籍に帰化したのは1961年で、家族揃って日本国籍を取得したといいます。
現在は帰化しているため日本人で、日本名の本名も錦野明ですが、韓国名は金明植です。
元々は韓国籍だった錦野旦ですが、生まれも育ちも日本で、日本語しか話せません。
また、韓国籍だったことを公表した理由については「なぜ隠すのかよくわからない、隠す必要もないし、わざわざ言うこともない」と語り、自然な形で公表することを選びました。
錦野旦は韓国で暮らしたことはないものの、2013年8月15日には韓国が日本の植民地支配から解放されたことを祝う光復節の第68周年記念式典に出席し、ステージで歌を歌いました。
日本に生まれ育ち、日本で暮らしてきた錦野旦ですが、ルーツである韓国の歴史も大事にしているようですね。
錦野旦の実家と家族
出典:http://jointent.jp/
ここからは錦野旦の実家、家族についてお届けします。
錦野旦は韓国籍から日本に帰化したことは前述しましたが、母親が在日韓国人、父親は日本人とのことです。
なぜ父親が日本人で日本に生まれながら韓国籍だったのか、その辺りの家族の事情もまとめました。
錦野旦の家族
家族構成は父親・母親・錦野旦・弟・妹の5人家族です。
父親が社交ダンスの講師だったこともあり、錦野旦自身も中学時代に父親から社交ダンスを習ったといいます。
その父親が大層モテたようで、宝塚歌劇団の生徒からファンレターを貰うほどだったというエピソードが残されています。
なぜ父親が日本人なのに韓国籍なのか
1961年に家族と共に韓国籍から日本に帰化した錦野旦。ですが、父親は日本人だと公表されています。
父親が日本国籍であれば子供も日本国籍になるのでは?という疑問が生まれますが、そこには複雑な事情があったと推測できます。
錦野旦は日本人の父親と韓国人の母親の間に非嫡出子として生まれた可能性が高く、その場合は日本国籍にはなりません。
つまり、戸籍上は私生児で、母子家庭で育った可能性があります。
ただ中学時代には社交ダンスの講師である父親からダンスを習ったとあるので、親子関係は悪くはなかったのではないでしょうか。
家族の情報はあまり残されておらず、どのような家庭環境で育ったかは推測の域にはなるものの、錦野旦の家族は当初、父親以外は韓国籍だったということになります。
錦野旦の生い立ち・若い頃のエピソード
出典:https://www.amazon.co.jp/
ここからは錦野旦の生い立ち、若い頃のエピソードを紹介します。
錦野旦の実家は自転車屋で、母親は16歳という若さで錦野旦を出産しました。
錦野旦はその後、スポーツや音楽が得意な活発な少年に育ち、中学時代には独学でトランペットを習得しました。
また、中学高校時代は器械体操部に入り、インターハイや国体に出場した経験もあり、水泳も得意だったといいます。
身体能力の高さはアイドル歌手デビューしてからも健在で、アイドルを中心に芸能人が多数出場する水泳大会や運動会イベントでは抜群の運動神経を披露してファンを魅了していました。
音楽の道へ進んだ若い頃のエピソード
高校時代は器械体操部で体操のオリンピック選手を目指すほどの才能を持っていた錦野旦ですが、生まれ持った体格が体操に相応しくないという理由で夢を諦めました。
その後、高校を卒業した錦野旦は父親から紹介された大分県別府市のナイトクラブ「ナポリ」でトランペットやベースの演奏を披露するようになり、音楽の道に進むことになります。
「ナポリ」では時折歌声も披露していたようで、ある日「ナポリ」に遊びに来ていた「キャバレー・エンパイア」の創業者・吉井勇吉が錦野旦の歌声に才能を見出し、自身の店にスカウト。
「キャバレー・エンパイア」は鹿児島最大の繁華街である天文館で当時街一番の賑わいを見せていたキャバレーで、歌手の森進一もここで歌っていたと言われています。
錦野旦はこのスカウトをきっかけに「キャバレー・エンパイア」の専属になります。
その3ヶ月後には、ハマクラの愛称で知られる音楽家・浜口庫之助と出会い、上京しています。
東京・赤坂にあった浜口庫之助のマンションに住み込み、運転手をしながらレッスンを積んで、1970年に「にしきのあきら」名義でシングル「もう恋なのか」でデビューしました。
デビュー後の錦野旦
出典:https://www.amazon.co.jp/
錦野旦はデビュー後、世田谷区駒沢にあるマネージャー宅で4畳半の部屋に住み、下宿生活をしながら歌手活動を始めます。
下積み時代を経て晴れてデビューした錦野旦は、デビュー曲である「もう恋なのか」がヒットして一躍人気アイドル歌手に。
デビュー年の1970年に「第12回 日本レコード大賞」で最優秀新人賞を受賞し、大晦日の「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たしました。
その後は現在まで第一線で活躍する歌手となり、若い頃の精悍さを保ちながら今では大人の男性の魅力も持ち合わせ、現在も世代問わず多くの人に愛されています。
錦野旦の結婚① 1度目に結婚した嫁と子供
PAGE 1 PAGE 2