ロックバンド「キャロル」のメンバーで名曲「トラブルメーカー」でも知られるジョニー大倉さんですが、実は在日韓国人です。
今回はジョニー大倉さんの生い立ちと家族、精神病院への入院歴、転落事故の真相、死去と死因をまとめました。
この記事の目次
ジョニー大倉とは
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名前:ジョニー大倉
生年月日:1952年9月3日
出身地:神奈川県川崎市
血液型:AB型
身長:172cm
ロックバンド「キャロル」のメンバーとして、一世を風靡したミュージシャンのジョニー大倉。
1972年、矢沢永吉らと共にロックバンド「キャロル」を結成、1972年12月25日に「ルイジアンナ」でデビューしました。
ギターと作詞を担当し、1973年には「ファンキー・モンキー・ベイビー」などの大ヒット曲を生み出すなど、日本ロックシーンの礎を築いた存在です。
バンド解散後はソロのミュージシャンとして音楽活動を始めるのと同時に、俳優活動も開始。
1975年には、在日韓国人をテーマにした映画「異邦人の河」で主演を務め、1981年の映画「遠雷」で第5回日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞しています。
そんなミュージシャンとしても俳優としても成功を収めたジョニー大倉ですが、人気絶頂期に自身が在日韓国人であることを告白したことでも話題になりました。
ここでは、ジョニー大倉の生い立ちや家族、精神病院への入院、自殺と騒がれた転落事故の真相、死去と死因をまとめました。
「トラブルメーカー」などの代表作もあわせて紹介していきます。
ジョニー大倉は在日韓国人であることを告白し話題に
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1975年、キャロルの共著「暴力青春」の中で、自身が在日韓国人であることを告白したジョニー大倉。
韓国名は「朴雲煥(パク・ウナン)」で、1975年に主演を務めた在日韓国人をテーマにした映画「異邦人の河」は韓国名の名義で出演しています。
出身は日本の神奈川県のため、ジョニー大倉は韓国の地に行ったことはありません。
在日韓国人であることを明かした「暴力青春」では、自身の生い立ちについても赤裸々に明かしており、韓国人であるが故に苦労した過去を語っています。
ジョニー大倉の生い立ちや家族についても、この後から詳しく見ていきましょう。
ジョニー大倉の壮絶な生い立ちとは
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ジョニー大倉の生い立ちを見ていきましょう。
ジョニー大倉は在日韓国人として生まれ、神奈川県にある外国人の居住区で暮らしていました。
父親は船荷を上げ下ろしする仕事で親方を務めるなど裕福な生活でしたが、ジョニー大倉が5歳の時に亡くなり、その後は母親と共に苦しい生活が始まります。
ジョニー大倉の母親はいわゆる“2号さん”で、正妻ではなく愛人でした。
父親を亡くしてからは3人の子供を1人で育てることになった母親は、韓国人ということもあって川崎の朝鮮人部落に身を寄せて暮らし始めます。
しかし、在日韓国人ではあるものの日本で生まれ育った母親は朝鮮人部落に馴染めず、1年経たずしてそこを離れ、日本人社会で生活するようになりました。
ジョニー大倉も日本で生まれ育ったことから自身が韓国人である意識はなかったようです。
ですが、子供時代には北朝鮮の帰還事業の影響で学校でいじめられていたといい、壮絶な生い立ちを送ってきました。
ジョニー大倉の家族とは
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ジョニー大倉は荷役の親方である父親と韓国人の母親のもとに生まれ、ミュージシャンとして活躍してからは自身の家族を持ち、妻と3人の子供に恵まれました。
家族構成は妻のマリー、長女の美香、そして長男と次男はミュージシャンや俳優として活動するケニー大倉と大倉弘也です。
ここでは父親と同じようにミュージシャン・俳優として活動する息子たちを中心に家族の情報を見ていきましょう。
長男・ケニー大倉
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名前:ケニー大倉
旧芸名:毛利ケンイチ、ケンイチ大倉
生年月日:1972年10月23日
出身地:神奈川県
血液型:O型
身長:178cm
旧芸名の「毛利 賢一」「毛利ケンイチ」「ケンイチ大倉」を経て、2021年より「ケニー大倉」の芸名で活動している長男。
1989年に映画「嵐の中のイチゴたち」で俳優デビューし、父親のジョニー大倉と親子共演を果たしました。
2018年には、ソロシングル「泣かないでベイビー」をリリースして歌手としてソロデビュー。
このシングルのボーナストラックにはジョニー大倉との親子共同制作曲「せめて今夜は」が収録されており、ミュージシャンとしても親子共演を果たしています。
次男・大倉弘也
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名前:大倉 弘也
生年月日:1979年9月10日
出身地:東京都目黒区
血液型:AB型
身長:170cm
高校卒業後に俳優を目指してハリウッドへ留学し、帰国後より日本で俳優として活動を開始した次男の大倉弘也。
2012年、父親ジョニー大倉のライブで前座を務めたことで音楽活動も始め、2016年にシングル「ミッドナイトハリケーン」でメジャーデビューを果たしました。
ジョニー大倉の代表作は「トラブルメーカー」
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ロックバンド「キャロル」のギタリストとして一世を風靡したジョニー大倉ですが、バンド解散後もソロのミュージシャンとして音楽を続け、数々の作品を世に送り出してきました。
キャロル時代から作詞を担当していたジョニー大倉が作る歌詞は、英語と日本語を織り交ぜた作詞法で知られています。
今では英語と日本語を混ぜた歌詞は当たり前のものになっていますが、その作詞法は当時はまだ珍しく、ジョニー大倉はその作詞スタイルを日本歌謡界にも広めた先駆者でもあります。
甘くてポップな可愛らしい曲調に、ジョニー大倉の独特の歌詞が乗った楽曲は多くの人に愛されていきました。
そしてソロミュージシャンとしての初アルバム「JOHNNY COOL」を皮切りに、「トラブルメーカー」など数々の作品を世に送り出してきました。
アルバム「トラブルメーカー」にはタイトル曲「トラブルメーカー」はもちろん、キャロルへのオマージュソングである名曲「4.13」や、ライブで人気が高い「命の限り」なども収録。
ぜひジョニー大倉のソロ作品もチェックしてみてくださいね。
ジョニー大倉は精神病院に入院していたことも…
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ジョニー大倉には、精神病院に入院していた過去があります。
精神病院への入院はキャロル時代に遡ります。
「ファンキー・モンキー・ベイビー」がヒットして人気絶頂を迎えていた頃、ジョニー大倉が数ヶ月間失踪したことがありました。
当時のキャロルはツアー中で、1973年11月23日の京都公演出発の朝に突然失踪し、その後数ヶ月間、ジョニー大倉と連絡が取れなくなったそう。
その後、神奈川県の精神病院で顔中に切り傷のあるジョニー大倉が発見されたというものです。
なぜ精神病院にいたのか様々な噂が流れましたが、当時のジョニー大倉は薬物に溺れて精神に異常をきたしていたとされており、それが原因で精神病院に入院したのではと言われています。
この騒動以降、ジョニー大倉は精神的に安定を得るために空手を習うようになり、再び精神病院に入院したという情報は聞こえてきません。
ジョニー大倉の転落事故の経緯とその後
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1987年10月、ジョニー大倉が宿泊中のホテル7階から転落し、全治6ヶ月の重傷を負った事故が発生しました。
ホテル7階からの転落ということで、自殺や薬物乱用が疑われましたが、ジョニー大倉はこの件について、ベランダの手すりを使って懸垂している時に手が滑って転落したと説明しています。
2004年には、俳優の窪塚洋介も自宅マンションから転落した騒動がありました。
ジョニー大倉はこの転落事故に言及し、「僕も彼も自殺未遂ではない。自分もキャロル時代は奇行に走っていた」と事故であることを改めて示しました。
ジョニー大倉は2014年に死去している…死因とは
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ロックバンド「キャロル」のメンバーとして、そしてソロのミュージシャンや俳優として一世を風靡したジョニー大倉ですが、残念ながら2014年に死去しています。
ここからはジョニー大倉の死去、死因と家族のその後についてまとめました。
ジョニー大倉の死去と死因
2014年11月19日、62歳で死去したジョニー大倉。
死因は肺炎でしたが、それ以前よりがんによる闘病生活を送っていました。
ジョニー大倉は2013年6月、肺に14個もの腫瘍が見つかり、末期の肺がんであると診断されました。
医師からは余命2週間を告げられるほどの深刻な状態で、すぐに抗がん剤治療がスタート。
抗がん剤の副作用は強く、体重が20kg落ちてしまい、あまりの苦しみから生きることを諦めかけたジョニー大倉。
しかし妻に「ロックンローラーでしょ、しっかりしなさい」と喝を入れられたそう。
また、歌手デビューした長男が父親への応援歌を歌ったこと、全国のファンから寄せ書きが贈られたことで、生きる希望が湧いたというジョニー大倉は、見違えるように回復していきます。
食事をとるようになると体重も戻り、当初余命2週間とされていながら闘病4ヶ月目には14個あった腫瘍が2個にまで減り、腫瘍の大きさも15cmあったものが2cmまで小さくなりました。
がんが発見された1年後にはライブを行えるまでに回復し、ステージでキャロル時代の名曲「ファンキー・モンキー・ベイビー」など全7曲を披露しています。
奇跡の復活を遂げたジョニー大倉でしたが、その後、2014年8月に容体が悪化して再入院。
再びがん治療を受けることになり、肺炎を併発したことで1年半の闘病生活の末に62歳で息を引き取りました。
遺された家族の現在
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ジョニー大倉の死去後、公式サイトで息子・ケンイチ大倉が「父ジョニー大倉を愛し応援して頂いたすべてのみなさまへ」と題したメッセージを公開しました。
それによると、ジョニー大倉は最期の瞬間までもう一度ステージに立ち、ファンの前で歌うという希望を捨てずに闘病に励んでいましたが、残念ながら願い叶わず力尽きたそうです。
また、ジョニー大倉の闘病中は、妻であるマリーもずっと看病のために病室に寝泊まりしていたようで、まるで恋人同士に戻ったかのように支え合う2人の姿だったと明かされました。
実は、ケンイチ大倉は小さい頃から父親に可愛がってもらった記憶がないそう。
ミュージシャンとして地方を飛び回っていたジョニー大倉には、たまに帰ってきても怒鳴られる幼少期を過ごしたことで、父親には嫌悪の感情を抱いていたといいます。
しかし入院中、ジョニー大倉から「お前にはすまなかった」と謝られたんだとか。
父親がずっと自分のことを気にしていてくれたことを知ったことでわだかまりが消え、やっと本当の親子になれたと語っています。
病気をきっかけに家族の絆が生まれ、疎遠になっていた家族が一つになったというケンイチ大倉。
父親に対して「おやじは自分の命にかえて家族の絆を取り戻したんじゃないか、そんな気がします」「これからも一緒にいたかった」と思いを明らかにしました。
最後には「残された家族しっかり力を合わせて頑張っていきますので、これからも大倉家を暖かく見守って頂けたら幸いです」と締めくくりました。
次男・大倉弘也が父の遺作をリリース
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ジョニー大倉の七回忌を迎えた2020年には、次男の大倉弘也がミュージシャンとして4年ぶりとなる新曲「LAST CAROL」をリリースしました。
カップリングには、父親・ジョニー大倉の遺作「LONG GOOD BYE ~To Mary〜」も収録されています。
この曲はジョニー大倉が妻マリーへ贈る最期のメッセージで、楽曲制作をジョニー大倉が務め、ボーカルを息子の大倉弘也が担当しました。
また、大倉弘也が父親の楽曲をカバーした「命の限り」は、2021年公開の映画「ぬくもりの内側」の挿入歌となっており、父親の才能を受け継いだシンガーとして現在も活躍しています。
まとめ
ジョニー大倉の在日韓国人としての生い立ちと家族、精神病院入院や転落事故の真相から、死去と死因まで、ロックスターの生涯をお届けしました。
日本のロックシーンの礎を築き、多くの人に愛されて惜しまれながらこの世を去ったジョニー大倉。
その音楽に対する精神は息子たちが受け継ぎ、大きな活躍を見せています。今後もジョニー大倉の息子たちの音楽活動に注目していきたいですね。
そしてジョニー大倉が遺した音楽は、これからも多くの人に愛されていくことでしょう。