映画「月はどっちに出ている」でブレイクし現在も活躍中の俳優・岸谷五朗ですが、国籍が韓国ともささやかれています。
今回は岸谷五朗の国籍、実家や父親・母親・兄弟など家族エピソード、生い立ちや若い頃の経歴と画像もお届けします。
この記事の目次
岸谷五朗のプロフィール
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名前:岸谷 五朗(きしたに ごろう)
生年月日:1964年9月27日
出身地:東京都武蔵野市
血液型:O型
身長:175cm
岸谷五朗は、アミューズ所属の俳優です。
プライベートでも仲の良い俳優・寺脇康文と共に主催する演劇ユニット「地球ゴージャス」のメンバーでもあり、舞台からテレビドラマ・映画まで幅広い分野で活躍中です。
代表作はドラマ「この愛に生きて」「みにくいアヒルの子」「恋人よ」、映画「月はどっちに出ている」「Returner」「藁の楯」などがあります。
特に、1993年公開の映画「月はどっちに出ている」で主演を務めたことで、俳優としてブレイクしました。
この作品で日本アカデミー賞の新人俳優賞、ブルーリボン賞の新人賞、毎日映画コンクールの男優主演賞、高崎映画祭の最優秀新人男優賞を受賞しています。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Eet-P-fmrIo]
私生活では、1996年6月28日にガールズバンド「プリンセスプリンセス」のボーカル・奥居香と結婚しました。
岸谷五郎とプリプリの奥居香は、90年代に岸谷五郎がDJを務めていたTBSラジオ「岸谷五朗の東京RADIO CLUB」(通称:レディクラ)の開始前の事前番組で共演しました。
この時、生放送の番組で放送事故レベルの喧嘩になり、岸谷五郎が「このアマ!」と放送禁止用語を叫ぶほどだったにもかかわらず、奥居香はその後も頻繁にゲスト出演。
そして、1996年6月28日に結婚を発表したという経緯があります。
仕事でも私生活でも充実した日々を送る岸谷五郎ですが、国籍や家族などベールに包まれた話題に注目が集まっています。
ここでは、岸谷五朗について韓国人と噂される国籍の真相、元ヤンの生い立ちと実家、父親・母親・兄弟など家族の情報とエピソード、若い頃の姿も合わせてお届けします。
岸谷五朗の国籍は韓国?
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日本で活躍する俳優の岸谷五郎ですが、巷では時折「国籍は韓国?」といった噂が浮上しています。
岸谷五朗の国籍やルーツについて調べましたが、各メディアやインタビュー記事にも岸谷五郎の国籍が韓国であるという情報はありませんでした。
なぜ岸谷五郎が韓国国籍と言われるようになったかというと、岸谷五郎の代表作でありブレイクのきっかけとなった映画「月はどっちに出ている」で在日韓国人を演じたことが発端です。
映画「月はどっちに出ている」とは
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1993年公開の映画「月はどっちに出ている」は、在日韓国人2世として韓国国籍を持つ映画監督・崔洋一による作品です。
この物語は、在日韓国人のタクシードライバーと、スナックで働くフィリピン人ホステスの恋愛模様を軸に、在日外国人やヤクザなど様々な人々の生き様を描いたヒューマンドラマ作品です。
主人公であり在日韓国人のタクシードライバー・姜忠男(通名:神田忠男)役を岸谷五郎が演じ、忠男と恋に落ちるホステスをフィリピン出身女優のルビー・モレノが演じました。
これまで日本の映像作品では在日韓国人は弱者として表現されることが多かったものの、本作では〝生の赴くまま〟に生きる姿が描かれたことで高評価を受けています。
それとともに、主演の岸谷五郎は各映画賞で最優秀新人賞を受賞。
さらに、その後に在日韓国人を題材としたヒット映画「GO」「血と骨」「パッチギ!」などの作品の系譜の始まりとも言われており、誰もが認める岸谷五郎の代表作となりました。
この作品での好演で、役のイメージが印象に残り、在日韓国人や韓国国籍説が浮上しましたが、その事実を裏付ける情報はなく、岸谷五郎は生まれも育ちも日本の日本人とされています。
岸谷五朗の実家
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ここからは、岸谷五郎の実家や家族エピソードを見ていきましょう。
岸谷五郎は東京都武蔵野市の出身で、実家も東京都武蔵野市にあります。
小学校・中学校も地元の公立校を卒業しており、最終学歴は東京都立小平高校卒業・中央大学商学部中退です。
実家は裕福な家庭とは言えず、公団住宅に住んでいたことを明かしています。
岸谷五朗の実家の家族(父親・母親)
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ここからは、岸谷五郎の家族についてお届けします。
岸谷五郎の家族構成は、父親・母親・姉・本人の4人家族で、2人姉弟の末っ子として育ちました。
岸谷五郎の家族:父親
岸谷五郎の父親は一般人ということもあり、職業や経歴などの情報がなく、各メディアのインタビューでも父親に関する話題がほぼ無く、詳細な情報は公表されていませんでした。
岸谷五郎の家族:母親
岸谷五郎の母親は、岸谷五郎が俳優になるきっかけを作った人です。
母親に連れられて行った演劇を観て役者に興味を持ち、三宅裕司主宰の劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」に入団しました。
実家が裕福ではなかったことから、母親は岸谷五郎を観劇に連れて行っても自分は入らず、劇場の外で待っていたことが明かされています。
家計が苦しい中でも、子供に良い体験をさせようと無理してくれた母親の愛情があったからこそ、岸谷五郎は今も活躍を続ける俳優になりました。
岸谷五朗の実家の家族(兄弟)
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岸谷五郎には姉がおり、2人姉弟の末っ子として育ちました。
岸谷五郎が小学4年生頃に姉は中学生だったそうなので、少なくとも3歳以上年上になります。
姉とは子供の頃から母親に連れられて一緒に演劇を観ていましたが、姉は一般人のようで、詳細な情報は公表されていません。
岸谷五郎の生い立ちや若い頃① 小学生で演劇に目覚める
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裕福ではない家庭で育った岸谷五郎ですが、小学生だったある日、母親に連れられて行った劇場でミュージカル「冒険者たち」を観て衝撃を受け、演劇に興味を持つようになりました。
それをきっかけにその後も多くの名作舞台を見るようになり、将来を考えるようになった時に「一生をかけられる仕事は役者だ」と思い、俳優を志すようになったといいます。
岸谷五郎の生い立ちや若い頃② 有名な元ヤンだった
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小学生にして演劇に目覚めた岸谷五郎ですが、その一方で小学生時代からかなりヤンチャな少年でした。
高校時代にはリーゼントの強面になり、東京・多摩の「小平愚連隊」で番格を張り、暴走族の集会にも参加するようなヤンキーでした。
若い頃から喧嘩三昧の日々を過ごし、次第に多摩地区を中心に「三多摩の五朗」の異名で呼ばれるように。
当時のことを岸谷五郎自身も「不良で、喧嘩っ早くて、キレやすかった」と語っています。
ただ、ヤンキーであっても周囲からは「正義感が強くて、周囲からは一目置かれていましたよ」と語られており、ただ悪さばかりをするだけの不良ではなかったことも明かされています。
岸谷五郎の元ヤンエピソードは、売れっ子俳優になってからも俳優仲間から証言されており、私生活でも仲の良い寺脇康文が「出会った中で最強の男」として岸谷五郎の名前を挙げています。
岸谷五朗と寺脇康文がまだ20代だった頃、若手俳優らと共に渋谷センター街を歩いている途中、酔っ払った若者たちがわざとぶつかって絡んできたそうです。
その時、岸谷五郎が若者たちを路地裏に連れ込み、5分後に戻ってくるなり若者たちは「すみませんでした!」と謝り倒し、そそくさと立ち去って行ったと語られています。
寺脇康文が路地裏で何があったか聞いても岸谷五郎は「言えない」と語らず、その元ヤンの片鱗を見た寺脇康文は「最強だ」と感じたことを明かしました。
岸谷五郎の生い立ちや若い頃③ 大学時代に劇団に所属
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岸谷五郎は高校卒業後、中央大学商学部に進学し、大学を中退して1983年に三宅裕司主宰の劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」に入団しました。
履歴書には特攻服姿の写真を貼り、元ヤンという衝撃で目を引き、入団試験の一人芝居では土下座する相手を死刑にする演技を披露。三宅裕司を驚かせ、強烈な印象を残していたといいます。
1983年に劇団に入った岸谷五郎は、同年上演の若手公演「夜明けのミステリーはローズマリー風味」で初舞台を踏みました。
しかしその後しばらくは役をもらえず、大道具や衣装作りを担当する日々を過ごしたようです。
役者として初めてギャラをもらったのは入団から5年が経った頃。
それでも月に3万円ほどだったため、中華料理店や道路工事、ホストクラブやヒーローショーなど様々なアルバイトで生計を立てながら下積み時代を過ごしました。
役が付かなくても諦めず、長い下積み時代を過ごした結果、その努力が報われて劇団の看板俳優として活躍するように。
そして、1993年の映画「月はどっちに出ている」の主役に抜擢されたことでブレイクを果たし、その後は映画やドラマに引っ張りだこの売れっ子俳優となりました。
岸谷五郎の生い立ちや若い頃④ SET隊
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岸谷五郎と俳優・寺脇康文は劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」の1年差の先輩後輩であり、プライベートでも仲の良い親友同士です。
1987年には岸谷五朗・寺脇康文・そして劇団仲間の俳優・山田幸伸と3人でコントユニット「SET隊(せったい)」を結成しました。
「スーパー・エキセントリック・シアター」の略称「SET」と「接待」を組み合わせた名前で、バラエティ番組やラジオ番組に出演し、コントやオリジナルラジオドラマを披露していました。
岸谷五郎の生い立ちや若い頃⑤ レディクラDJ
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岸谷五郎は90年代、TBSラジオで自身の冠ラジオ番組「岸谷五朗の東京RADIO CLUB」通称・レディクラでDJを務めています。
レディクラは平日深夜に毎日放送された人気ラジオ番組で、元ヤンならではの漢気と持ち前のカリスマ性で人気を集め、岸谷五郎を「兄貴」と慕う当時の若者から支持されていました。
まだ俳優としてブレイクする前に放送が開始されましたが、次第に岸谷五郎がドラマや映画に引っ張りだこになり、1994年9月に放送最終回を迎えました。
岸谷五郎の生い立ちや若い頃⑥ 俳優としてブレイク
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岸谷五郎の代表作として前述した映画「月はどっちに出ている」で主演を務めた若い頃の岸谷五郎がこちらです。
岸谷五郎は劇団出身の俳優として、コントユニットやラジオを経て知名度を上げ、ついに1993年公開の映画「月はどっちに出ている」で念願のブレイクを果たしました。
この作品を機に様々な作品から声が掛かった岸谷五郎は、その後もドラマ「妹よ」「恋人よ」「この愛に生きて」に出演。
さらに映画では、「ヒーローインタビュー」「平成無責任一家 東京デラックス」「バースデイプレゼント」など、多くの作品に立て続けに出演しました。
ブレイク直後の出演作品の中でも、1996年放送のドラマ「みにくいアヒルの子」では、自身初の連続テレビドラマ単独主演を飾り、主人公・平泉玩助役を演じました。
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「みにくいアヒルの子」は、北海道女満別の全校生徒数10名という小さな小学校の教員・平泉玩助が、東京の大規模な小学校へ赴任し、悩みながらも成長していく姿が描かれたドラマです。
30年近く前に放送された作品にもかかわらず、2022年現在でもファンが多く、「考えさせられる」「素直に感動できる」「今でも大好きな作品」と高評価レビューが並んでいます。
残念ながら現時点ではサブスクなどの動画配信サービスでは配信されていませんが、もしかしたらレンタルビデオ店などにはまだ残っているかもしれません。
ブレイク直後の若い頃の岸谷五郎作品が気になった方は、ぜひチェックしてみてくださいね。
まとめ
岸谷五郎の韓国国籍の噂、生い立ちや家族、若い頃の姿をお届けしました。
現在も数々のヒット作に出演し、主演も脇役もこなせる名俳優として活躍する岸谷五郎のこれからにも期待です!