「革命戦士」と呼ばれるプロレス界のレジェンドであり、2018年12月28日についに引退した長州力さん。
長州力さんの韓国にまつわる本名や生い立ち、実家の家族について詳しく総まとめしましたのでご紹介します。
長州力の韓国にまつわる本名やプロフィールについて
長州力の本名やプロフィールについて
日本のプロレス界で伝説を残してきた長州力
長州力さんはアマチュアレスリング出身のプロレスラーで、専修大学在学中には韓国代表のレスリング選手としてミュンヘンオリンピックに出場しました。
新日本プロレスに入り1974年にデビューしましたが、反体制派として「革命軍」を結成し、「革命戦士」と呼ばれて数々の名勝負を生み出してきました。
2018年12月28日の東京・後楽園ホールでの試合を最後に現役引退しました。
長州力さんについての詳しいプロフィールはこちら。
リングネーム: 長州 カ、吉田 光雄
本名: (日本名、現戸籍名) 吉田 光雄
韓国名: (旧戸籍名)郭 光雄
ニックネーム: 革命戦士
身長: 184cm
体重: 120kg
誕生日: 1951年12月3日
出身地: 山口県徳山市(現:周南市)
所属: リキプロ
スポーツ歴: レスリング
トレーナー: アントニオ猪木、マサ斎藤
デビュー: 1974年8月8日
引用:Wikipedia – 長州力
長州力さんが生まれた山口県徳山市(現・周南市)は山口県の中で6番目に在日韓国人・朝鮮人が多い地区となります。
長州力さんは両親の代で日本に渡ってきたため在日韓国人2世となり、韓国名は「郭 光雄(かく みつお/クァク・クァンウン)」です。
長州力さんは2016年に帰化して日本国籍を取得しています。
長州力の実家の家族や生い立ちについて
長州力の実家の両親は廃品回収業だった
長州力の両親は1939年に韓国忠清北道から来日した
長州力さんの両親は第二次世界大戦直前の1939年に韓国中部の忠清北道から日本に渡り、廃品回収業をしていました。
言葉が分からない在日韓国人・朝鮮人が日本に渡ってきて就ける職業といえば、飲食店か風俗業界、そして長州力さんの両親のように廃品回収業などでした。
正業に就けない在日韓国人・朝鮮人の家庭は当時激しい差別の対象であり、それは長州力さんも例外ではありませんでした。
長州力さんの父親は非常に短気で血の気の多い人だったようで、怒ると物で殴られたため、現在まで残っている傷もあると語っています。
家はトタン屋根でできたようなボロ屋で極貧でしたが、長州力さんは4人兄弟の末っ子であり、非常にわんぱくで外で遊ぶのが大好きだったことから、川で泳いで魚を捕ったり、他人の柿の木から柿を盗んで食べていました。
また、長州力さんは海岸で拾った海藻を集めて魚釣りの餌として釣り人に売ってお小遣いを稼いでいました。
長州力は小学校時代から在日韓国人として差別を受けた
長州力は小学校の担任からいじめられていた
長州力さんは小学校3年生の頃に従軍経験のあった担任教師から在日韓国人としていじめられていたと小学校時代の苦悩を明かしたことがありました。
暴力的な父親の影響やそうした在日差別により長州力さんは岐陽中学校時代には喧嘩に明け暮れるようになり、地元で負けなしの不良になっていました。
その圧倒的な力を山口県桜ケ丘高校のレスリング部からスカウトがあり、長州力さんは授業料免除の特待生として入学しました。
長州力さんは”吉田光雄”の日本名で出場した長崎国体で優勝し、インターハイでは準優勝を収めています。
この活躍が多くの大学レスリング部が注目し、長州力さんはアマチュアレスリングの強豪校である専修大学商学部に特待生で入学しました。
しかし、長州力さんはこうした活躍の裏にも在日韓国人としての苦悩があり、高校国体の後に韓国籍だったことからアメリカ遠征のメンバーに選ばれず、顧問の監督からは日本代表選手に選ばれるために帰化することを進めましたが、兄から「同胞が取り入ってくれなくなる」とそれまでの関係が崩れることを示唆したため諦めました。
この頃も長州力さんは血気盛んでやくざと喧嘩してボコボコにしては違う大学を語っておちょくり、楽しんでいたというエピソードがあります。
「血気盛んな当時はヤクザをボコボコにのして、倒れている相手に『俺を誰だと思ってるんだ。明治大学の柔道部だぞ!』と捨てゼリフを吐いたことがあるそうです。翌日、黒塗りの車が専大と同じ生田にある明大へ。『明治に向かって行ったぞ。アッハッハ』と笑っていました」(元新日本関係者)
引用:アサ芸プラス – 半生ドキュメント本で激白!長州力を生んだ“在日という源流”「韓国代表としてミュンヘン五輪に出場」
その後、大学在学中に長州力さんは韓国代表としてミュンヘンオリンピックに出場しました。
しかし、日本育ちで韓国語が話せない長州力さんはコミュニケーションが取れずに退屈したため、ずっと音楽を聞いていたようです。
豪快な長州といえども、国籍問題をクリアするために韓国代表で臨んだミュンヘン五輪は勝手が違った。同部屋の同胞と言葉も通じないという環境だ。
〈「ぼくは退屈しないように、アキバかどっかで音楽を聴くプレーヤーとヘッドフォンを買っていったんです。彼らにとっては滅茶苦茶珍しい。それをしょっちゅう借りにくるんです。貸すのはいいけど(中略)正直言えば、盗むことが多い」
引用:アサ芸プラス – 半生ドキュメント本で激白!長州力を生んだ“在日という源流”「韓国代表としてミュンヘン五輪に出場」
懐かしのフォト。
— 小林 邦昭 (@9mHbJuK7DCuCrke) 2019年1月18日
長州力 俺達の時代宣言
この言葉はプロレス界に一石を投じましたね。 pic.twitter.com/VNZdmCZW7i
出張で東京に来た兄と、飯田橋の「お肉酒場ginza-tei with 長州力」に行ってきた。肉も美味いしコスパがかなり高い!肉好きにオススメ!長州力さんにも会えた最高! pic.twitter.com/FfhwuF9Rso
— wakaba (@wakabachonmage) 2019年1月18日
2019年1月16日の #全力日記
— ウ・ナ・ギ・ノ・ボ・リ大好き男 (@unagi_nobori_r) 2019年1月16日
俺がプロレスを好きになったのは、小学4年生の時なので今から36年も昔の頃。その時に憧れていたレスラーは長州力✊まさかここまで現役でいてくれるとは思ってもいなかった😂今年の6月26日にファイナルマッチを行うが、ここまで頑張ってこれたのも彼のおかげだ😉#長州力
長州力の生い立ちや実家の家族について総まとめすると・・・
プロレス界のレジェンドとして2018年末まで活躍した長州力さんの生い立ちや実家の家族について総まとめしてきました。
・長州力は天性の強さでレスリングを始め、オリンピックを経てプロレス界へ入った
長州力さんは4人兄弟の末っ子だったことから兄弟喧嘩でも幼少期から鍛えられていたのかもしれませんね。
在日韓国人差別を受け続けてきたからこそ、「革命戦士」としてプロレス界を切り開く強さを持っていたのかもしれません。