「新御三家」として野口五郎さん、郷ひろみさんと共に昭和の大スタートして活躍し、2018年5月16日に急性心不全のため63歳の若さで亡くなった西城秀樹さん。
西城秀樹さんの韓国にまつわる本名や生い立ち、実家の家族について詳しく総まとめしましたのでご紹介します。
西城秀樹の韓国にまつわる本名やプロフィールについて
西城秀樹の本名やプロフィールについて
平成の終わりに亡くなった昭和の大スター
西城秀樹さんは1972年3月25日にシングル「恋する季節」で歌手デビューをして以降、「新御三家」と呼ばれ昭和を代表する大スターとして歌手・俳優・バラエティタレントなど多方面で活躍してきました。
2度に渡る脳梗塞での闘病の末、2018年5月16日に急性心不全で亡くなりましたが、最後まで満身創痍の体にムチを打ってファンのためにステージに立ち続けた姿は多くの人に感動を遺しました。
西城秀樹さんについての詳しいプロフィールはこちら。
本名: 木本 龍雄(きもと たつお)
生年月日 1955年4月13日
出身地: 広島県広島市(現:東区)東蟹屋町
死没: 2018年5月16日(63歳没)
死没地: 神奈川県横浜市
学歴: 明治大学付属中野高等学校定時制 卒業
ジャンル: J-POP
職業: 歌手、俳優
活動期間: 1972年 – 2018年
事務所: 芸映⇒アースコーポレーション
引用:Wikipedia – 西城秀樹
西城秀樹さんの本名は「木本龍雄」ですが、これは通名であり1975年12月10日の官報で韓国名「李乙龍」から帰化したという情報があるようです。
そして、1975年12月10日の『官報』にある帰化の記録には、住所が東京都港区となっている以下の姓名の記載がある。
李乙龍(木本龍雄)昭和三十年四月十三日生
西城秀樹さんの生年月日は1955年(昭和30年)4月13日のため、官報の情報と一致しており在日韓国人だったことは間違いないでしょう。
西城秀樹の在日韓国人説に批判的な声
純潔日本人しか認められないネトウヨ
西城秀樹さんが在日韓国人だったという事実に対して、それまでファンだったネトウヨ・嫌韓ユーザーは手のひらを返したようにヘイトコメントをする人もいるようです。
Q. 西城秀樹は在日説がありますが、本当にそうだったら裏切られた気分ですよね?
日本のスターは日本人であるべきだと思います。
僕はスポーツ選手や芸能人が韓国系であることが分かるとガッカリします。
反論する奴は左翼。
A. 日本で人気者になり、日本人の感覚を持ち、日本人に愛され、日本人の輪に入ったかたです。
出自などはよくは知りませんが、西城秀樹さんは日本人です。
まさに回答者のコメントのとおりだと思いますが、在日韓国人だったからと言って西城秀樹さんの魅力や遺してきた感動や伝説が色褪せるわけではありません。
日本は島国で鎖国を解いて間もないため純血主義的な人が多いのは仕方が無いですが、すでにグローバル社会も終わろうかという現代で未だにヘイトコメントをしているネトウヨは時代に取り残されていると言っても過言ではないでしょう。
西城秀樹は韓国で脳梗塞を発症した
皮肉にも自身のルーツである韓国で脳梗塞を発症
西城秀樹さんは2001年秋に二次性多血症(脳梗塞)を発症したと報じられ、2003年6月21日にリリースした85枚目のシングル「粗大ゴミじゃねぇ」直後のディナーショーのため韓国に渡り滞在中に脳梗塞で倒れました。
妻・美紀さんと結婚した2年後の2003年。歌手としても脂が乗り切り、公私に充実していた48歳の秀樹さんは、ディナーショーを開催した韓国で1度目の脳梗塞を発症する。当時は衝撃を呼んだが、これまで報道されなかった舞台裏があった。事情通の証言。
「実は現地のゴルフ場で水道の水をがぶがぶ飲んだ後、程なくして『あぁ…具合が悪い…』とこぼすようになった」
発症後、言葉をうまく発声できない軽度の言語障害が残る事態になったが、体調を崩したきっかけは、意外にも現地の“生水”だったという。
韓国の安全基準はまだまだ行き届いていないのが現状のため、日本の感覚でどこでも水道水を飲むとお腹を壊す可能性が高いですが、西城秀樹さんはすでに持病を抱えていたことから免疫力が落ちていたのかもしれません。
西城秀樹さんは体調を壊したことで2度目の脳梗塞を引き起こすきっかけになってしまったと言われています。
それでは、西城秀樹さんの生い立ちについて詳しくご紹介していきましょう。
西城秀樹の韓国にまつわる生い立ちと実家の家族について
西城秀樹の父親は非常に厳格な人だった
西城秀樹の父親は色々な事業を起こした事業家だった
西城秀樹さんの父親は多岐に渡る事業家で、飲食店、パチンコ店、不動産業、ビリヤード場、自動車のタイヤの卸し会社などで成功していたため、実家はとても裕福でした。
西城秀樹さんの父親や母親の名前や詳細な情報は分かりませんが、おそらく第二次世界大戦の前後で日本に渡ってきた在日韓国人1世だったと思われます。
当時、日本に渡ってきた在日韓国人・朝鮮人の中には、母国の特色を生かして当時日本には無かった焼肉屋やホルモン焼き屋を始めて生計を立てている人は多くいました。
肉を焼いて食べるという文化は日本にも古来からありましたが、現代でいうところの「焼肉」の発祥は戦前戦後に韓国から持ち込まれたという説が根強いようです。
また、当時在日韓国人・朝鮮人はほとんどの人が日本語を話せず、酷い差別の対象だったため正業には就けなかったため、廃品回収業や飲食店、風俗業しか仕事がありませんでしたが、中には密造酒製造・販売、パチンコ店などで成功して資産家になった人もいました。
西城秀樹さんの父親もそうした成功者のひとりだったのでしょう。
手広く稼いでいる敏腕社長の父親は非常に厳格で、実家では父親が絶対的だっため帰ってくると家族全員玄関で正座して出迎え、食事は父親が好きなメニューでした。
西城秀樹さんはそんな父親に反抗しては家の中を追いかけられて逃げ回っていました。
西城秀樹、父親の影響で音楽を始める
西城秀樹の父親はジャズギターが趣味だった
西城秀樹さんはジャズギターが趣味でいつも家で音楽を聴いていた父親に影響を受けて幼少期から洋楽を聴き始めました。
西城秀樹さんには9歳年上の姉と3歳年上の兄がおり末っ子でしたが、姉と兄の間に生まれたふたりの子供は小さい頃に亡くなっているようです。
西城秀樹さんは幼少期からバイオリンを習っていましたが、父親の影響でジャズスクールに通い始め、ギターやベース、ドラムを学びました。
小学校時代に周りに洋楽を聴く人はいなかったため、西城秀樹さんは兄姉と音楽の話をしていましたが、小学校4年生の頃には兄とエレキバンド「ベガーズ(beggars)」を結成し文化祭などに出演していました。
西城秀樹さんは毎年町内会のお祭りで歌を披露して2000円のおひねりを貰うなど、すでにこの頃からスターの片鱗を見せ始めていたようです。
#西城秀樹 さんを聴いていると、この方がいかに沢山のジャンルの、いかに沢山の歌を聴いて来たか、いかに心を揺さぶられて来たのかが分かります
— HTreiko (@HTreiko) 2019年1月20日
そしてそれを皆と共有したくて、歌い方に反映したりライブで歌ったり、努力を重ねずっと提供し続けてくれたのだなと
正しい評価が、これからも続きますよう
西城秀樹さんの
— WHIP STEP ART WORKS (@whipstepartwork) 2019年1月15日
ブルースカイブルー
あの日
深く思いました
本物のアーティストは
運命によってこの地上に舞い降りてくれるものなのかと
だって秀樹さんが最後の最後にスーパースターとして人々の心に残ってゆく為の楽曲に思えたからです
それ程までに物凄い楽曲をすでに与えられていたのだと…
秀樹の歌唱映像を見直して気付いたのだが、秀樹のパフォーマンスの高さを語るにおいて特筆すべきは音を捉えて体で表現する能力が卓越していたこと。
— ミック・ヒデキ‼ (@doragone1127) 2019年1月16日
パフォーマーに必須のセンシティブな能力であり、秀樹はあらゆる表現芸術家に比する能力を持ち合わせた表現者だったのではないかと思う。#西城秀樹
西城秀樹の韓国にまつわる生い立ちと実家の家族について総まとめすると
2018年に惜しくも亡くなった昭和の大スター・西城秀樹さんの韓国にまつわる生い立ちや実家の家族について総まとめしてきました。
・西城秀樹は在日韓国人ながら韓国に対して強い思い入れは無かった
西城秀樹さんは2度目の脳梗塞で半身麻痺と言語障害が残りながら、「YOUNG MAN」を完全に歌いたいという希望から死の間際までステージに立ち続けました。
西城秀樹さんの子供達が芸能界に入るかは分かりませんが、もし歌手や俳優としてデビューしたなら大注目が集まるでしょう。