日本を代表する演歌歌手・山本譲二ですが、国籍が韓国ではないかとの噂もあります。
今回は山本譲二のプロフィール、本名や生い立ち、国籍や韓国との関係、実家の場所と父親・母親・兄弟、家族エピソードをまとめました。
山本譲二のプロフィール
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名前:山本 譲二(やまもと じょうじ)
生年月日:1950年2月1日
出身地:山口県下関市
血液型:A型
身長:174cm
山本譲二は、「みちのくひとり旅」や「夢街道」などで知られる演歌歌手です。
1974年に芸名「伊達春樹」名義でシングル「夜霧のあなた」をリリースして歌手デビュー。
その後、北島三郎の付き人となり、1976年に本名の山本譲二で再デビューしました。
30歳だった1980年にリリースした楽曲「みちのくひとり旅」がヒットしたことで人気歌手の仲間入りを果たし、同曲は1981年の日本レコード大賞でロングセラー賞を受賞しています。
現在はYouTubeチャンネル「山本譲二YouTubeチャンネル」を開設し、楽曲のミュージックビデオや音楽活動の裏側、トーク企画などさまざまな動画を投稿して話題になっています。
ここでは、そんな山本譲二の本名と国籍、生い立ち、実家と家族についてまとめました。
山本譲二の本名
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山本譲二の本名はそのまま「山本 譲二(やまもと じょうじ)」です。
1974年にシングル「夜霧のあなた」で歌手デビューした際は、芸名の「伊達 春樹」名義で活動していました。
作詞作曲を行う際は「琴五郎」のペンネームを使用しています。
山本譲二の国籍は韓国?
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日本を代表する演歌歌手である山本譲二ですが、一部で国籍が日本ではなく韓国ではないかと噂されています。
噂の根拠になったのは、出身地が在日韓国人が多いとされる山口県下関市だからのようです。
山口県下関市は韓国と近く、在日韓国人も多く住むことで知られており、竹崎町にあるグリーンモール商店街はまるで韓国を訪れたようなディープな雰囲気のあるコリアンタウンです。
しかしコリアンタウンは一部地域のみで、さらに山本譲二が育った町は在日韓国人が多く住む場所とは別のところにあります。
実際に山本譲二の国籍が韓国という情報はないため、日本国籍の日本人である可能性が高いでしょう。
山本譲二と韓国の関係
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山本譲二は自身の事務所に、弟子として韓国人歌手パク・ジュニョンを所属させていました。
パク・ジュニョンは1982年生まれの韓国・釜山出身の韓国人男性歌手で、2002年に韓国でボーイズグループのメンバーとしてデビューしています。
デビュー後はヒットに恵まれず解散し、その後別グループを結成しましたが、これもヒットを飛ばすことなく解散を迎えました。
思うように売れず芸能活動がままならないことに悩んだパク・ジュニョンは、過去にホームステイした経験がある日本を訪れ、西日本を中心にインディーズ歌手として活動。
その中で、山本譲二の目に留まり、山本譲二が社長を務める芸能事務所ジョージ・プロモーションに入所して、2012年に「愛・ケセラセラ」で日本デビューを果たしました。
山本譲二はパク・ジュニョンのことを秘蔵っ子として可愛がり、常に隣に連れ歩いて歌手として育て上げました。
パク・ジュニョンは2021年に独立してジョージ・プロモーションを離れましたが、現在も山本譲二からの教えを胸に、“K-演歌”で日本と韓国を繋ぐ架け橋になるべく活動を続けています。
山本譲二の生い立ち
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山本譲二の生い立ちを見ていきましょう。
山本譲二の生い立ち:高校球児
山本譲二は1950年2月1日に山口県下関市で生まれ、地元の学校に進学して、高校時代は早鞆高校の野球部に所属しました。
高校3年生だった1967年には山口県代表として夏の甲子園に出場し、チームは1回戦で敗退したものの、自身は代打出場で内野安打を放っています。
山本譲二の生い立ち:歌手デビュー
高校卒業後は演歌歌手を夢見て上京し、歌の勉強をしながら多くの職を転々としました。
クラブのボーイ時代に肝臓を壊して一時地元に戻りますが、22歳で再び上京。
スナックでギターの弾き語りをしていたところ、作曲家で歌手の浜圭介の目に留まり、芸能界への道が開かれました。
しかし、1974年に伊達春樹の芸名でシングル「夜霧のあなた」をリリースしてデビューするも、鳴かず飛ばずで、売れっ子への道は険しいものでした。
そして最後のチャンスと覚悟を決めて、2年間北島三郎の付き人を務めることに。
北島三郎のもとで過酷な修行の日々を送り、1976年に出場した読売テレビの歌謡オーディション番組「全日本歌謡選手権」で注目を浴び、本名の山本譲二名義で再デビューを果たしました。
山本譲二の実家
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山本譲二は山口県下関市出身で、実家も下関市にあります。
実家の詳細な住所は公表されていないものの、出身小学校が山口県下関市本町2丁目にある「下関市立養治小学校」なので、この付近に実家があるものと思われます。
山口県下関市と言えば、関門海峡が有名な海の街で、ふぐが美味しいことでも知られています。
自然豊かでのびのびとした雰囲気が素敵な地域で幼少期を過ごしたのですね。
山本譲二の家族(父親・母親)
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ここからは山本譲二の家族についてお届けします。
山本譲二の家族構成は、父親・母親・姉・本人の4人家族で、2人兄弟の弟として育ちました。
父親は1999年に死去、母親は2021年に死去しています。
山本譲二の家族:父親
山本譲二の父親・山本武さんは、山口県下関市でタクシー運転手として働いていました。
性格はとても厳格で、まさに“昭和の親父”を絵に描いたような父親だったようです。
山本譲二は2人兄弟の弟で、子供の頃はとても泣き虫で気が弱かったそうですが、父親はそんな息子を厳しく育てました。
しかし山本譲二が小学生に上がり一緒にキャッチボールをするようになると、いい球を投げた時に父親が「よう届いたな」と笑顔で褒めてくれるようになりました。
山本譲二は最初は嫌々野球をやっていましたが、「父が優しくなるなら、もっと上手になろう」と考え、野球に熱中するようになったといいます。
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野球強豪校の早鞆高校に進学後も、その厳しさは健在だったそう。
練習で疲労困憊になって帰宅した山本譲二に「まだ風呂は入らんでええ。トスバッティング行ってこい」と命じ、夜遅くまで海岸でバッティングの練習をさせていたとのことです。
山本譲二は後に「父は野球を通して俺を強い男に育てたかったようだった。俺もそれに応えたかった」と語っています。
厳しい父親のもとで育ったことで、根性のある精悍な男性になったのかもしれませんね。
山本譲二の家族:母親
山本譲二の母親・山本ハルエさんは、山本譲二曰く、美人で自慢の母親でした。
晩年は認知症を患い、2012年からは関門海峡が見える景色の良い高齢者向け施設に入居して暮らしていました。
2021年7月に老衰のため96歳で亡くなっており、大往生したことがわかっています。
老衰により亡くなった2021年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で面会ができず、山本譲二は最期の時に立ち会えなかった無念を明かしていました。
山本譲二の家族(兄弟)
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山本譲二には姉が1人おり、2人兄弟の弟として育ちました。
山本譲二と言えば、演歌歌手の大御所であることから、周囲からは「兄貴」と呼ばれて慕われていますが、実生活では姉がいる弟ポジションでした。
姉は3歳年上で、一般人のため職業や経歴などの詳細は公表されていませんが、山本譲二と姉は子供の頃から仲睦まじい関係だったことがわかっています。
山本譲二と姉の兄弟エピソード
前述の通り、山本譲二は高校時代、甲子園に出場するほどの強豪の野球部に所属しており、日頃の練習は相当キツく、さらに練習後も父親からは更なる練習を課されていました。
この時、トスバッティングの練習に付き合ってくれたのが姉です。
山本譲二と姉は2人で海岸まで行き、姉が投げてくれる小石をボールに見立ててバットを振っていたというエピソードが明かされています。
まとめ
山本譲二の本名と国籍、韓国との関連や生い立ち、実家と家族についてお届けしました。
現在はYouTubeにも進出して活動の場を広げている山本譲二。今後の活躍にも注目が集まります。