日本プロ野球界初の3000安打達成者であり、野球解説者として『サンデーモーニング』のご意見番として知られる張本勲さん。
張本勲さんの韓国国籍にまつわる本名、生い立ちや実家の家族について詳しく総まとめしましたのでご紹介します。
張本勲の韓国国籍にまつわる本名やプロフィールについて
張本勲の本名やプロフィールについて
ご意見版の「喝」でお馴染みの張本勲
張本勲さんは読売ジャイアンツやロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)などで日本を代表する打者として活躍し、引退後は野球解説者として2000年頃から日曜朝の情報番組『サンデーモーニング(TBS系)』のスポーツコーナー「週刊 御意見番」での姿がお馴染みとなっています。
張本勲さんについての詳しいプロフィールはこちら。
本名: 張 勲 (チャン・フン、장훈)
生年月日: 1940年6月19日
出生地: 広島県広島市
国籍: 大韓民国
身長: 181 cm
体重: 85 kg
ジャンル: プロ野球選手・俳優
活動期間: 1966年 –
引用:Wikipedia – 張本勲
張本勲さんは在日韓国人2世であり本名は「張 勲 (チャン・フン)」となります。
張本勲さんの両親が韓国の慶尚南道昌寧郡大合面の出身であり、戦前に日本海を渡って日本へ入り、その後帰化していないことから国籍は韓国のままとなっているようです。
張本勲の韓国国籍にまつわる生い立ちや実家の家族について
張本勲の壮絶な生い立ちについて
母親は張本勲を身ごもったまま日本海を渡った
張本勲さんの両親は1939年に韓国の南東部にある慶尚南道昌寧郡大合面から日本に渡りましたが、母親は当時張本勲さんをお腹の中に身ごもっていた状態で、1940年6月19日に身を寄せた広島で生まれました。
張本勲さんは韓国を生みの親、日本を育ての親だと語っています。
張本勲さんには兄と2人の姉がいましたが、家族6人は6畳ひと間のトタン屋根で出来た長屋に住んでいました。
4歳の頃に張本勲さんは土手で藁を積み上げたとんどでサツマイモを焼いていたところ、急にバックしてきたトラックに驚いてバランスを崩して火の中に右半身から飛び込んでしまい、大やけどから右手の親指、ひとさし指、中指以外の自由が奪われる障害を負ってしまいました。
張本勲、5歳の頃に広島原爆に被爆する
母親は張本勲を原爆の熱風からかばった
張本勲さんが5歳だった夏の1945年8月6日に、爆心地から約2kmほどしか離れていない広島市段原新町(現・南区段原)で張本勲さん一家は被爆しました。
張本勲さんの住んでいたところは海抜70メートルの高さの比治山が熱線を遮ってくれたため奇跡的に直撃を免れたそうです。
しかし、衝撃波により家は倒壊し、張本勲さんは気を失いましたが、意識を取り戻した時には母親が衝撃波から守るように覆いかぶさって守っており、出血していました。
張本勲さんと兄、次女は母親から「先に逃げなさい」と言われて近所のぶどう畑に逃げ込みましたが、道中熱線を受けて大やけどを負い「熱い、痛い」とうめき声を挙げながら川に飛び込み亡くなって行く人々や、人肉が焼ける酷い匂いが立ち込めていたそうです。
張本勲、姉(長女)が被爆して亡くなる
張本勲の姉(長女)は原爆を直接被爆した
張本勲さんの当時14歳だった姉は学徒勤労動員で比治山の西側にいたため原爆の熱線を直接浴びてしまい、名札を頼りに2日後に担架で家族の元に運ばれてきました。
快活で美人だった張本勲さんの姉は顔も判別できないほど酷い全身やけどで、「痛いよう、痛いよう」と泣きながら呻いていたそうですが、張本勲さんは母親の懐で苦しむ姉にぶどうを口元で絞って飲ませてあげると「勲ちゃん、ありがとう」と消え入りそうな声で言ったそうです。
母親は着ていたチョゴリを引き裂いて水を含ませ、夜通し姉を冷やしながら看病をしていたそうですが、運ばれて来てから1日半後に亡くなりました。
この5歳の夏の記憶は張本勲さんは現在でもありありと思い出されるようで、戦争に対して激しい怒りを以下のように語っています。
戦争というのは、相手が分かっているからよけい怒りを感じます。私はプロ野球を引退後、広島原爆の平和記念資料館に2度行こうとしたのですが、手に汗がにじんで震えて、入ることができなかった。苦しみだけでなく、怒りと恨みがこみ上げてくるのです。よくもこんな姿に、こんな形で。身代わりで、あれだけの人をね。それはやった方は言い分があるでしょう。それがないともっと犠牲が出たとかね。やられた方は、忘れることができない。
姉を失い悲しみに暮れた張本勲さんの家族でしたが、終戦直後のまだ張本勲さんが5歳の時に今度は父親が思わぬ事故で亡くなってしまいます。
張本勲、父親が事故で亡くなる
張本勲の父親は不運な事故で亡くなった
張本勲さんの父親は終戦直後に韓国に戻り、生活基盤を整えて一家を呼び寄せるつもりでしたが、食事中に太刀魚の骨を喉に詰まらせたことから亡くなってしまいました。
父親が亡くなった時期に一家が帰国する予定だったヤミ船が下関沖で転覆してしまったため、帰国の手段を失ったことから母親は日本で生活することを決意しました。
父親が亡くなり張本勲さんと兄、次女を女手ひとつで育て上げた母親でしたが、日本に渡ってきてまもなく原爆に被爆し、言葉も分からないまま3人の子供を育てるのはよほどのことだったでしょう。
その後、母親はトタン屋根のボロ屋を借りて家族4人で生活を始め、商売用の牛や豚の臓物を闇市で仕入れて大工や工員などを相手に自宅でホルモン焼き屋を営み、子供達を食べさせていました。
本場韓国仕込みのホルモン焼きやキムチにお店の評判は上々で、張本勲さんも客に気に入られてホルモン焼きをご馳走になることもあったそうです。
韓国では百種類以上ものキムチがあり、リンゴや梨、牡蠣(かき)などを入れて旨味を出したりするが、うちは貧乏だったので、具材は白菜だけのシンプルなキムチである。それでも手をかけて丁寧につくっていたので十分に旨く、お客の評判も上々だった。店のお客は近くで働く工員や大工さんで、学校から帰ってガラッと戸を開けると、土間に置いたミカン箱のテーブルでいつも何人かが楽しそうに一杯やっている。なかに浪花節のうまいオッチャンがいて、私が六畳間で飯を食っていると、障子を開けて「勲ちゃん、こっちに来て聴けよ」と呼ばれ、ときにホルモンをご馳走してくれたりした。
母親は闇市で捨てられる安い屑肉も手に入れてきていたため、朝食の味噌汁にはネギと豆腐と屑肉、そしてニンニクで風味づけした美味しいもので、張本勲さんは「忘れられない母親の味」と述懐しています。
張本勲、ガキ大将として育ち野球の才能を開花させる
張本勲は子供時代から体が大きかった
張本勲さんは181cmと大柄ですが、子供時代から体格が良かったそうでガキ大将として子分を引き連れ、当初は野球よりも水泳の方が得意だったそうです。
張本勲さんは広島市立比治山小学校に通い、町内の野球チームに誘われて所属しましたが、当初は右投げ右打ちをしていたものの右手の指の障害から変化球が投げづらかったため、練習してサウスポーに変えました。
当時野球よりも水泳の方が得意だった張本勲さんは、段原中学校に挙がった時に水泳部が無かったことから諦めて野球部に入りました。
張本勲さんは中学2年生の頃にはエースで4番として活躍し、広島県大会で優勝するほど才能を開花させていましたが、一方で喧嘩にも明け暮れていたようで「あのまま広島に留まっていたらヤクザになっていた」というほどの不良だったそうです。
同時期に張本勲さんは広島カープの本拠地である広島総合球場の場外にあった木によじ登って野球観戦をしていましたが、宿舎で読売ジャイアンツの選手たちが戦後で物資が少ない時代ながら分厚い肉を食べていたことから「野球選手になれば家族に楽をさせられる」と決意してプロ野球選手を目指し始めました。
18歳でプロ野球入りしたとき、東映フライヤーズから契約金としてもらった200万円を世話になった兄貴に預け、おふくろのために広島市内に土地を買い、家を建ててもらった。
今思うとちっぽけで平凡な家なのだが、それまで暮らしたトタン屋根の家に比べれば御殿のように見えたものだ。2年後、九州で試合をした帰りに、私はワンちゃん(王貞治)をこの家に招いた。五右衛門風呂に入って一泊したワンちゃんにも、おふくろはこの味噌汁を供したように思う。ワンちゃんはあの味を覚えているか、今度会ったら聞いてみたい。
夕方のNHK広島で張本勲が涙しながら被爆体験や原爆が原因でお姉さんが亡くなった時の話をしてた。この人は原爆投下時、お母さんが覆い被さってくれたから助かったんだな。普段、「喝」を入れまくってる張さんだが、壮絶な体験しとんじゃな。
— パープーウーパールーパー (@bluebeetle12) 2014年7月31日
韓国の反日についてTBSのサンデーモーニングの取材を受けた時、担当者に「韓国には未だに広島原爆、福島原発をからかいながら、ざまあみろと書き込みをする人が多い。これに関して被爆経験者である張本勲氏にどう思うか聞いてみたらいい」と提案したことがある。「それはできない」と言われた。
— 崔碩栄 (@Che_SYoung) 2014年6月7日
朝鮮半島から渡ってきた元東映フライヤーズ、読売ジャイアンツの主砲、昭和15年生まれの張本勲さんて、5才の時に、アメリカの広島原爆投下、被爆してるんだよね(勤労奉仕で出勤してた長姉は死亡)。それでも張本さんは今も元気だ!。東電ごとき不始末に負けるでない!日本人!。
— kunisan (@kunisan1957) 2011年8月6日
張本勲の生い立ちや実家家族について総まとめすると・・・
日本と韓国の野球界に多大な貢献をしてきた張本勲さんの生い立ちや実家家族について詳しく総まとめしてきました。
・張本勲は原爆に被爆しながらも家族を守るために野球選手になった
張本勲さんは日本の野球界で伝説的な記録を残し、韓国野球界を創設することにも尽力したことから韓国政府から日本の勲一等にあたる「無窮花章」を受章しています。