史上3人目の三冠王達成者で通算本塁打868本の世界記録を持つ王貞治さんですが、78歳にして再婚し話題となりました。
今回は王貞治さんの本名や国籍、父母や兄弟など家族、生い立ち~巨人入団、結婚や子供をまとめました。
この記事の目次
王貞治のプロフィール
「世界の王」と呼ばれる野球界のレジェンド
王貞治さんについての詳しいプロフィールはこちら。
国籍: 中華民国
出身地: 東京府東京市本所区(現:東京都墨田区)
生年月日: 1940年5月20日
身長: 177 cm
体重: 79 kg
投球・打席: 左投左打
ポジション: 一塁手、右翼手
プロ入り: 1959年
初出場: 1959年4月11日
最終出場: 1980年10月20日
引用:Wikipedia – 王貞治
王貞治の国籍や本名・父と母とは
王貞治さんは、父親・王仕福さん、母親・登美さんの次男として生まれました。
王仕福さんは中国浙江省麗水市青田県(現・台湾)の出身で、登美さんは富山県富山市の出身となります。
「王貞治」という名前は本名です。
また、国籍は母親の私生児として日本国籍を取得していた、という話もあるものの、静岡国体に国籍問題で出場できなかった有名なエピソードがあることから、中華民国籍となるようです。
王貞治の生い立ち① 幼少期は病弱だった
王貞治の母親・登美さんは108歳まで生きた
王貞治さんは、1940年5月10日に二卵性双生児の弟として生まれましたが、出生時に仮死状態だったそうで、両親はすぐに亡くなると予感し、出生届を出していなかったそう。
そのため、戸籍上の出生日が少し遅れて登録されてしまいました。
そして、王貞治さんの双子の姉・廣子(ひろこ)さんも同じく病弱だったため、1歳3ヶ月でこの世を去ってしまいました。
生き延びた王貞治さんでしたが、3歳の頃まで病弱で立つこともできない状態でしたが、4歳にして、ようやく他の子供と同じように健常な体に成長しました。
王貞治さんは6人兄弟の次男になりますが、末っ子だった妹の佳子さんが生後数ヶ月で死去しており、長兄の鉄城さん、長女の幸江さん、次女の順子さんに次ぐ末っ子として育ちました。
また当時は太平洋戦争中で、国内感情により中華圏の名前は差別を受ける可能性が高かったため、一時期、母親方の旧姓である「當住」を名乗っていました。
王貞治の生い立ち② いじめられなかった理由2つ
父親は中華料理店「五十番」を経営していた
戦後の日本では、外国人の子供はいじめの対象になることが普通でした。
しかし、父親が真面目な性格で、中華料理店「五十番」の店主として地域に溶け込もうと近所付き合いを大切にしており、王貞治さんはその恩恵で、いじめられることはありませんでした。
また、病弱だった幼少期から一転、王貞治さんは小学校時代からガタイが良かったようで、相撲でも負けなしのちびっこ横綱だったそう。
中学時代にはすでに身長175cmの好戦的な喧嘩好きだったことから、いじめの対象にできなかったという見方もあるようです。
王貞治の生い立ち③ 野球を始めたきっかけ
父親は野球選手に賛成ではなかった
王貞治さんは、近所の子供で集まって神社の境内などで草野球はしていました。
本格的な野球と出会ったのは、長兄の鉄城さんが慶応義塾大学医学部に進学して野球部に入り、その合宿に連れて行って貰った時でした。
この体験から、王貞治さんは墨田区立業平小学校4年生の頃に、クラスの友達らと本格的な野球チームを作りました。
元々王貞治さんは虚弱体質で、懸垂や腕相撲など他の子に引けを取っていましたが、野球の才能があり、投手で4番を務めていました。
しかし、野球を始めてからは王貞治さんは瞬く間に体が強くなり、当時の横綱・吉葉山から「相撲取りになりなさい」と相撲の道を勧められるほどでした。
そんな王貞治さんは、1953年に小学校を卒業すると、中学校でも野球を続けました。
王貞治の生い立ち④ 中学校時代に頭角を現す
決して恵まれた環境ではなかった
王貞治さんが通っていた墨田区立本所中学校は、グラウンドが使えない状態だったようで、野球部は休部状態であり、陸上部と卓球部に所属していました。
そのため、野球を続けるために、王貞治さんは地元の野球好きのおじさんが作った高校生中心の野球チーム「厩四ケープハーツ」に所属していました。
そして、自分よりも技術の高い高校生らに揉まれて、めきめきと上達していきました。
同野球チームには王貞治さんの他にも、中学生でキャッチャーを務めていた仲間がいました。
そんな2人の活躍から、「本所中学にすごい中学生がいるらしい」という噂が広がり、東京都の野球大会への招待状が本所中学に届いたそう。
そのため、王貞治さんらは急ごしらえのチームを作って、その大会に参加しました。
ピッチャーの王貞治さんとキャッチャー以外は、素人同然のチームでしたが、2人の圧倒的な強さでカバーし、なんと区大会で優勝を果たしました。
さすがに、都大会では2回戦敗退となりましたが、この経験により王貞治さんはピッチャーとキャッチャーさえ強ければ野球ができることを知ったそうです。
王貞治の生い立ち⑤ 野球の師・荒川博と出会い、プロ一直線
荒川博との出会いでレジェンドの礎が築かれた
王貞治さんが本所中学2年生だった1954年11月末頃に、隅田公園今戸グラウンドにて「厩四ケープハーツ」の試合をしていたところ、突然自転車で通りかかったおじさんが入ってきました。
このおじさんは当時「毎日オリオンズ」の投手をしていた荒川博さんで、たまたま自転車で犬の散歩中に王貞治さんの活躍を見たようです。
この偶然の出会いにより、王貞治さんはそれから荒川博さんに師事することになりました。
その後、早稲田実業学校高等部商業科に進学すると、在学中に4季連続の甲子園出場を果たすなど、プロ野球界が注目する注目株となりました。
そして1959年、王貞治さんはかねてから決めていた巨人に入団することになります。
契約金1,800万円(現在の価値で約1億8千万円)、年俸144万円(現在の価値で約1,440万円)という、高卒としては破格の待遇によりプロ入りを果たしました。
王貞治の1度目の結婚とは【嫁との馴れ初め~プロポーズまで】
王貞治はファンだった恭子さんと結婚した
2人の出会いは、当時高校1年生だった恭子さんが友達に誘われて巨人の合宿に遊びに行った時のことだそうです。
王貞治さんは、快活に話すその友達ではなく、大人しい恭子さんと意気投合をして、交際を始めました。
そして、王貞治さんと恭子さんは6年間の交際の末に1966年に結婚しました。
王貞治さんの恭子さんへのプロポーズの言葉は「ドドンパ(音楽のジャンル)はお好きですか?」だったそうです。
王貞治の子供とは
次女・王理恵はタレントとして活動
王貞治さんと恭子さんは、3姉妹に恵まれており、長女の理香(りか)さん、次女の理恵(りえ)さん、三女の理沙(りさ)さんとなります。
長女と三女は一般人のため、あまり情報が公開されていないようですが、次女の王理恵さんはタレントやスポーツキャスターとして活躍しています。
なお、王理恵さんは現在までに3度の結婚を経験しており、1度目は博報堂時代の同僚、2度目は番組プロデューサー、3度目は歯科医で婚姻関係は継続中です。
王貞治が再婚した女性とは
王貞治は早くに恭子さんと死に別れた
1度目の結婚相手である恭子さんは、2001年10月に胃がんのため57歳の若さで死去しています。
王貞治さんも同様に、2006年に胃がんのため胃の全摘出手術をしていますが、その後の脳梗塞や胆のう手術をした時も献身的に支えたのが、再婚した女性でした。
2015年11月20日発売の写真週刊誌「FRIDAY(フライデー)」によれば、再婚相手の女性は王貞治さんより18歳年下の60歳で、20年ほど前に知り合い、2009年頃から同棲していたそう。
自民党の稲田朋美さんに似た美人で、福岡の中洲にある老舗料亭の女将をしているそうで、王貞治さんは元々行きつけだったそうです。
ずっと献身的に支えてくれた女性にけじめをつけるために、王貞治さんは2018年5月30日に結婚したことを報告し、78歳での再婚に世間の度肝を抜きました。
ニュース「王貞治さんが」
— @51hnwkb (@hnwkb) June 1, 2018
ワイ「嘘だろオイ」
ニュース「再婚しました」
ワイ「嘘だろオイ」
王貞治半端ないって。あの方半端ないって。
— 大迫はんぱないbot (@osako_hanpa) June 1, 2018
78歳にして一般女性と再婚するもん。
そんなんできひんやん、普通。(フォロワーさんより)
おめでとうございます!
王貞治78才再婚のニュース、
— タロスケ (@marines_nyk) June 1, 2018
全てを手にし人生を最後まで謳歌せんとする高齢者と、
幸せのビジョンすらなく将来を悲観する若者ワイが対比されてしまい
何とも言えないお気持ちを抱いている。
まとめ
「世界の王貞治」と呼ばれ、弱小だった南海ホークス時代から常勝・連覇が当たり前の強豪に育て上げた名監督・王貞治さんについて、生い立ちや家族、結婚について総まとめしてきました。
・王貞治は78歳で18歳年下の女性と再婚して世の男性を勇気づけた
王貞治さんだからこそ、78歳でも再婚できたとも言えますが、後期高齢者になっても人生の新しいステージを生きる姿は、多くの人を勇気づけたことでしょう。