一青窈

一青窈はハーフ!本名や国籍・生い立ち・父と母や姉の情報も総まとめ

はじめに

「もらい泣き」で衝撃のデビューをし「ハナミズキ」が大ヒットを飛ばした歌手・一青窈さんですが、生い立ちや家族が話題です。

 

今回は一青窈さんの本名、ハーフの由来である国籍や生い立ち、父母や姉など家族情報をまとめました。

一青窈のプロフィール 【本名も紹介】

 

現在までに歌われ続ける名曲の持ち主

 

一青窈さんについての詳しいプロフィールはこちら。

 

 

本名: 顏 窈(イエン・ヤオ)
別名: 窈ちゃん、一青っち
生誕: 1976年9月20日
出身地: 台湾
学歴: 慶應義塾大学環境情報学部卒
ジャンル: J-POP
職業: 歌手、作詞家、俳優
活動期間: 2002年 –
事務所: 株式会社 大家(ターチャー)
共同作業者: 武部聡志、小林武史

 

引用:Wikipedia – 一青窈

 

 

一青窈のルーツは台湾 【父方実家は台湾の五大財閥の顔家】

 

一青窈の父方実家は台湾の大財閥だった

 

一青窈さんの姉で歯科医師や舞台女優、エッセイストとして活躍する一青妙さんが、ルーツである父方の顔家について調べ、明かしたことがありました。

 

それによれば、顔家は台湾では珍しい姓のようで、台湾人の多くの祖先が福建省からの移民であるそう。同様に、一青窈さんの父親一族も福建省から台北の基隆(ジーロン)に定住しました。

 

 

当時はまだ日本統治時代だったそうで、一青窈さんの祖父は基隆の周辺にある鉱山を開発して一代で資産家となっており、顔家は台湾でも「五大家族(財閥)」に数えられていました。

 

一青窈さんの祖父は基隆に6万坪以上の土地を持ち、大邸宅を構えていましたが、中国国民党政権による弾圧・虐殺事件「二・二八事件」が起きた時に財産すべてを没収されました。

 

顔家以外の財閥は政府におもねることで事業を拡大していきましたが、これを機に顔家では「政府には関与しない」という鉄の家訓が出来上がったそうです。

 

 

一青窈の生い立ち① 台湾人の父親と日本人の母親の間に生まれたハーフ 

一青窈は台湾で生まれ日本で育ったハーフ

 

日本統治時代の台湾人の多くは日本国籍であり、上流階級層の子供は日本に渡って勉強していました。

 

一青窈さんの父親もそうして日本に渡っていましたが、日本で戦争が始まったことと台湾で「二・二六事件」が発生し、祖父や一族が窮地であることを知って台湾に戻りました。

 

しかし、共産党のスパイ摘発の名目で多くの同級生が逮捕されていくのを目の当たりにし、身の危険を感じた一青窈さんの父親は、2年程で密航という形で日本に戻らざるを得ませんでした。

 

そして、日本に渡ってほどなくして一青窈さんの母親と出会いました

 

一青姓は母親方の姓で、台湾でのテロの沈静化に伴ってともに帰国し、姉の一青妙さんと一青窈さんが誕生しました。

 

ちなみに、国籍は日本国籍ではないかという意見が有力視されています。

 

一青窈の生い立ち② 父親を残し母親と姉とともに日本へ

 

一青窈

出典:https://mantan-web.jp/

父親が早くに他界し思い出が少ない

 

一青窈さんは幼稚園卒業後、父親を残して、母親と一青妙さんと一緒に日本に移住し、母親の実家がある石川県で暮らしました。

 

そして、一青窈さんが小学校2年生の8歳の頃に父親ががんで他界してしまい、それ以降は母親方の姓である一青を名乗り始めました。

 

なお、一青窈さんは現在でも、台湾を訪れた時は顔姓を名乗っているそうです。

 

 

一青窈さんは小中高一貫校の森村学園に通っていましたが、初等部時代に宮沢賢治の詩に感銘を受けて作詩を始めました。

 

また、一青窈さんは美術部やバスケットボール部に所属し、生徒会では書記を務めていました。

 

 

一青窈さんが高等部に入った16歳の頃に、母親もがんで亡くなってしまいましたが、当時はがんの告知を患者本人にしないのが一般的だったそう。

 

姉の一青妙さんは、母親はもちろん、学生だった一青窈さんにはがんであることを知らせませんでした。妹が長い間苦しまなくて済むよう、守るために明かさなかったとのことです。

 

結局、一青窈さんは母親が亡くなる12時間前にがんであることを知らされたそう。

 

驚きのあまり、一青窈さんは一瞬言葉を失ってしまったそうで、一青妙さんは「妹からは恨まれてもしょうがない」と語っていました。

 

しかし、一青窈さんはそうした姉の配慮に恨むどころか、その気持ちに感謝していることを『中居正広の金曜日のスマイルたちへ(TBS系)』で語りました。

 

 

「一青窈の金スマ見て号泣←」、「ダメだ…金スマの一青窈さんの見てて涙が止まらない。」など、とにかく番組を見て号泣する人が続出した。

番組収録まで一青窈本人も知らなかった亡き両親に纏わる事実が、再現VTRと共に、両親の遺品や実の姉である一青妙から涙ながらに語られ、スタジオの一青窈も思わず号泣した。

妹に本当の事を伝えられなかったことを後悔していると吐露した姉:一青妙の気持ちに応えるように、「姉が(両親のことを)私に知らせなかったことを恨んでなんかいません。むしろ、その私を想ってくれた気持ちに感謝しています。」と涙ながらに語った。

 

引用:UtaTen – 一青窈 「金スマ」特別編 の”ハナミズキ”に大反響!! 「バク泣きが止まらなかった。」

 

一青窈さんが生い立ちについて明かした『金スマ』を見た多くの視聴者は、涙なしには見られなかったようです。

 

「一青窈さんは素敵な家族を築いて欲しい。君と好きな人が 百年続きますように。。。」と言ったコメントがツイッターなどで多く見受けられたようです。

 

 

一青窈、父親不在の寂しさを日記に綴っていた

自身の生い立ちを歌った「POPULAR WEEK」

 

2008年3月3日、東京交響楽団の常任指揮者である大友直人さんがプロデュースする「POPULAR WEEK」が東京文化会館・小ホールで開催されました。

 

一青窈さんは、プロデューサーの武部聡志さんとともに出演しました。

 

その曲目は一青窈さんの生い立ちにまつわるもので、中には早くに亡くなった父親への想いを込めた「ぱぱへ」など、深い悲しみや、懐かしく微笑ましい思い出を歌に乗せて披露しました。

 

 

武部聡志のピアノに乗せ、「一九七六年、九月二十日、台湾人の父と日本人の母の間に私は生まれました」と自らの生い立ちを朗読劇のように綴る「年年歳歳」から第一部の幕が開けた。続く「ぱぱへ」では、幼い頃に父親と離れて暮らし、当時の寂しさを埋めてくれた日記のような手紙が、現在の歌詞の原形になっていると告白。放課後の音楽室で先生に教えてもらった曲を一人で歌った小学生時代の思い出「あこるでぃおん」、初めて付き合った彼と手を繋げないまま歩いた切ない恋物語「かざぐるま」へと続いていった。

 思い出をたくさん残してこの世を去った父と母への思いや、一人でも自分の歌を聴きたい人がいるのなら歌い続けようという決意。第一部の最後は、「26才の時、私の思いがすべて流れていく素敵な曲と出会いました」と、デビュー曲「もらい泣き」で締めくくった。

 

引用:ライブドアニュース – 一青窈、自らの生い立ちを歌で綴る

 

第1部の最後に歌われた「もらい泣き」では、会場の多くの人が”もらい泣き”したことでしょう。

 

 

一青窈の生い立ち③ 慶大時代に歌と出会う

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