日本が悪行の限りを尽くしたと言われている「南京事件(南京大虐殺事件)」ですが、捏造や嘘との証言があるのも事実です。
今回は南京事件についてわかりやすく、原因や死者数、捏造や嘘と言われる写真、真実をまとめてみました。
この記事の目次
南京事件(南京大虐殺事件)をわかりやすく解説
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南京事件が起こったのは、1937年(昭和12年)12月から6週間、もしくは最大2ヶ月以内に起こったとされています。
この南京事件が起こったのは、南京戦の最中とされていますので、まずは先に南京戦について説明したいと思います。
南京戦とは
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日中戦争での戦いの中の1つに、南京戦というものがあります。
1937年7月末~8月、上海で日本将兵が殺害される「大山事件」などが相次ぎます。そして、8月31日に中国軍が攻撃を開始し、第二次上海事変が始まりました。
中国空軍により上海爆撃が実施され、日本軍の陣地だけではなく歓楽街にも被害をもたらしたので、日本側は「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲する」と声明を発表しました。
一方、蔣介石も8月15日に「対日抗戦総動員令」を発令します。日本軍は上海戦で苦戦し、日本軍の死傷者は12,388名に上ったそうです。
しかし、第10軍を抗州湾に、第16師団を白茆口に上陸させると、戦況は好転しました。
11月15日、「一挙追撃を随行し、南京を占領すべき」とし、第10軍は独断で進撃を開始。
中国軍によって橋梁や道路が徹底的に破壊されていたので、最前線の部隊は橋梁や道路を修復しながらの進撃になりました。
日本軍側からは、「南京攻略戦」であり、中国側からは「上海南京保衛戦」という研究もあるそうです。
経過
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11月9日 上海戦線の中国軍が退却を開始する。
11月15日 日本軍第10軍が「独断追撃」を遂行し、南京進撃を開始する。
12月7日 総統蔣介石夫妻は南京を脱出。南京市長や政府高官もすべて脱出したため無政府状態になる。
12月8日 日本軍が南京城を包囲した。
12月10日 投降勧告の回答期限が過ぎても反応がなかったため、総攻撃を開始した。
12月13日 南京が陥落した。
12月17日 陸海軍による入城式が挙行された。
南京事件とは
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南京事件では、南京戦で日本軍が中華民国の首都である南京市を占領しました。
その時に、約6週間もしくは2ヶ月以内に渡り、日本軍が中国の捕虜や敗残兵・便衣兵・南京城内などの一般市民に対して殺傷や暴行を行ったとされています。
戦後、南京軍事法廷や極東国際軍事裁判で裁かれました。犠牲者数・虐殺の存否などは現在も様々な論争があります。
南京事件の他に、「南京大虐殺事件」「南京虐殺事件」などと呼ばれています。
南京市は、東西(中山門~漢中門)約5.3km、南北(大平門~中華門)約8kmで、面積は35km²です。茅ヶ崎市の面積が35.70km²ですので、ほぼ一緒ぐらいの大きさになります。
城外の下関や水西門市街など含めると、39~40km²になり、鎌倉市(39.67km²)ぐらいの面積になります。
南京事件(南京大虐殺事件)の原因とは?
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南京事件が起きた原因について、日中歴史共同研究ではこのような評価になっています。
まず、日本側の問題点としては宣戦布告のない「事変」であったこと、日本陸軍が「ハーグ陸戦条約」を徹底しなかったためにことが挙げられています。
そのため、「中国兵捕虜の取り扱い指針の欠如」「占領後の住民保護の軍政方針の欠如」「略奪などの軍気の緩み」「飛行を取り締まる憲兵の少なさ」などが指摘されています。
中国側の問題としては、「防衛戦の誤り」「民間保護対策の欠如」が指摘されています。
この民間保護対策というのは、日本軍の開城勧告に応じなかったことや脱走困難になった部下を見捨てたということのようです。
さらに、南京城司令官・唐生智が「わが血肉をもって南京城と生死を共にする」と誓い、徹底抗戦を叫んでいながら逃亡したことで、指揮統制の放棄も挙げられています。
これらの中華民国政府の対応について、南京安全区国際委員会のジョン・ラーベも批判しています。
南京事件(南京大虐殺事件)での死者数は?【諸説紹介】
南京事件の死傷者については、様々な論争がされており0人~30万人とかなり幅があります。
なぜここまで犠牲者の数に開きがあるかというと、中国の国民政府軍の動員された兵士の数や南京事件当時の南京市の人口が明確に把握されていないことが理由の1つです。
さらに、一般市民の殺害はどこの地域までにするのかということもあります。
広い範囲の農村部になると日本側の記録の数値も明確ではありませんので、そういったことも人数の開きの要因だと思われます。
スマイスの調査は?
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南京占領後の1938年3月~4月にかけて、南京市部と農村部での戦争被害の調査を、南京安全区国際委員会で秘書でもある金陵大学社会学部教授のルイス・S・C・スマイスが行いました。
それによると、南京城区の一般市民の不法殺害は2400人、殺された男性市民は4200人、城内と城壁周辺の埋葬資料調査からの推移では市部で12,000人、近郊区の農村地域での被害者数は26,870人、と算出されています。
30万人以上説
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この見解は中国側の見解であり、資料的根拠も乏しいのですが、1947年の南京軍事法廷での中国側が記載した「30万人以上」というのがきっかけになり、1人歩きしています。
ジャーナリストのアイリス・チャンや中国共産党・南京大虐殺記念館なども、この見解を支持しています。
ただ、1939年に上海で出版された南京安全区国際委員会の記録では、日本軍の占領直前の南京の人口は20万人、占領1ヶ月後の人口は25万人と記録されているようです。
そうなると「30万人以上」という数字は矛盾すると指摘されています。
20万人以上説
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東京裁判で、日本軍が占領して最初の6週間で南京とその周辺で殺害された一般市民と捕虜の総数が20万人以上とされ、埋葬隊記録では155,000体とあるようです。
この数の中には、焼き棄てられた死体・揚子江に投げられた死体は計算に入っていないと言われています。
10数万人以上説
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中国の近現代史を専門にしている歴史学者・笠原十九司さんは、中国軍総数を約15万と推計しています。
そのうち、約5万が国民政府軍に帰還(中国軍側は11万人と集計)、1万人が戦闘中に死亡、1万人が撤退中に逃亡、残り8万人が日本軍によって殺害されているとしています。
そして、民間人の犠牲者の推定は困難としています。
中国兵の犠牲者8万人、南京城市の一般人犠牲者数1万2千、南京周辺農村部2万7千を含むと、10万人~20万人以上と推定されています。
この、笠原十九司さんの説では、南京周辺の農村部の犠牲者も含んでいます。
4万人上限説
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日本の歴史家である秦郁彦は、南京守備軍の兵力10万のうち5万にが戦死、3万が捕虜になった後、殺害されたと推定しています。
中国兵の犠牲者3万人、一般人の虐殺犠牲者1万人で4万人を上限としています。
これは、上海派遣軍郵便長の佐々木元勝の日記「俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされている」にほぼ一致するとしています。
さらに、「4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下回るであろうことを付言したい」としています。
中国軍総数約11~12万人と集計し、半数が国民政府軍に帰ってきており、約4~6万人が戦死と捕虜(行方不明も含む)としている中国一次文献もあります。
数千~2万説
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公益財団法人偕行社による「南京戦史」で、不法殺害とは言えないが捕虜・敗残兵・便衣兵のうち中国人兵士約16,000人、民間死者数15,760人としています。
編集委員の板倉由明さんは、中国軍総数5万、そのうち15,000人が戦死者、捕われて殺害された者を16,000人、生存捕虜が5,000人、脱出成功者14,000人と推計しています。
その上で、兵士の虐殺数を8000~11,000人、虐殺した市民は、城内と江寧県を合わせて15,000人、虐殺に該当するものを5000~8,000人と推計しました。
合わせると13,000になりますが、幅を持たせて1~2万にと推計されています。
板倉さんは、南京事件に関して虐殺数の30万人のみ否定するという立場のようです。
南京事件(南京大虐殺事件)の事例
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南京裁判で、集団虐殺を行ったのは、中島、畑中、山本、長谷川、箕浦、猪木、徳川、水野、大穂の9部隊とされ、1947年3月10日に南京国防部軍事裁判所は第6師団司令官・谷寿夫に死刑を申し渡しています。
いくつか大虐殺と言われている事例を紹介します。
・中華門外駐屯日本軍は、村人30人余に魚を捕るために水に入ることを強制し、その結果、魚を捕りに水に入ったものは凍死し、拒否したものは殺された。
・老人を木の枝に縛って吊るし、射撃の練習をした。
・中国軍人警察官の2千人余は、漢中門外で機関銃で射殺され焼き殺された。
・幕府山に捕らえられていた中国軍人と民間人の57,418人を針金で縛り、下関の草蛙峡で機関銃で射殺された。
・日本軍が放火を行い南京の半分が燃え、救済しようとした者は殺された。被害は、中華門循相里の家屋数10棟・中華門釣魚巷・湖北路・長楽路・又閘鎮の家屋数百棟が全焼した。
これらの証拠として、「証人1,250人余」「遺体埋葬の責任者(許伝音・周一漁・劉徳才・盛世徴)の調書」などを挙げています。
死刑判決を言い渡された第6師団司令官・谷は反論しています。
・谷の第6師団は入城後中華門一帯に駐屯しており、蕪湖に12月21日にはすべて移動していた。中華門一帯は激戦地であったため住民は避難しており、残虐の対象となる者はいなかった。
・谷は軍規厳正で1人も殺害していない。
この他にも、いくつか反論しています。
百人斬り競争
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南京事件を検索すると、必ずと言っていいほどこの「百人斬り競争」が出てきます。
百人斬り競争とは、日本軍の野田毅少尉と向井敏明少尉が、南京入りまでにどちらが早く日本刀で100人斬るかを競ったと言われています。
1937年11月30日の東京日本新聞の報道によると、「百人斬り競争!両少尉、早くも八十人」との見出しで記事が出たようです。
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたった三日間で突破した。まさに神速、快進撃。その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は二十五人斬りを果たしたという。
1937年12月4日には、見出し「急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過」で、以下の記事が掲載されました。
二日午後六時丹陽入場までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となった。
常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬った訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。
1937年12月6日には、見出し「”百人斬り„大接戦 勇壮!向井、野田少尉」で、以下の記事が掲載されました。
入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名という接戦となった。
など、その都度報道され、当時この2人は英雄のように扱われました。
しかし、これらの100人斬りに関しても、色々な論争があるのも事実です。
南京事件(南京大虐殺事件)は捏造?嘘?【疑惑の写真を紹介】
南京大虐殺の証拠とされる写真はたくさんありますが、本当にその写真は日本軍が行ったものなのか、合成写真ではないのかなどの話も聞こえてきます。
ここでは、捏造の写真ではないか・嘘ではないのか?と言われている写真をいくつか紹介したいと思います。
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日本兵により中国人が生き埋めにされている、と言われている写真です。
よく見ると、日本兵は銃をもっておらず脅している様子もありません。さらに、各人の大きさが不自然であるため、複数の写真の合成と考えている教授もいるようです。
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日本兵が中国人を処刑しているとされている写真です。
しかし、日本人は日本刀を振り下ろす場合、片手ではなく両手で行うそうです。この構えは中国の青龍刀の振り下ろし方で、写真は中国人のヤラセ写真ではないかと言われているようです。
さらに、この日本兵とされている男性は他のニセ写真にも現れているそうです。
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アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」や「南京大虐殺」の証拠としてよく使われている写真です。
この日本兵とされている男性の軍服が立て襟という指摘があります。これは、1938年6月1日の軍服改正後のものだそうです。
南京事件は1937年ですので、南京占領当時ではないと言われているようです。
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日本兵が生身の中国人を銃剣の練習台にしていると、1937年秋にAP通信が報じ、さらにアイリス・チャンの本でも載っている写真です。
しかし、前述の通り、当時の日本兵は誰も立て襟ではなかったのに対し、写真の男性の服が立て襟なので、日本兵ではないと言われています。
さらに、米国「ローダウン誌」によると、中国共産党が中国人捕虜を苦しめている写真だとしているようです。
元和江田大学教授・洞富雄、ジャーナリスト・本多勝一、戦争研究家・高崎隆冶などがこの説に近いとされています。
南京事件(南京大虐殺事件)の真実とは?
「南京大虐殺はあった」「被害者の数は30万人以上」というのが、世界の常識になっているように感じます。
しかし、残虐を証明する写真がなかったり、証言者の信憑性もまちまちなため、様々な論争があることも事実です。
ここでは、南京事件での別の証言などを参考に、南京事件の真実を紹介したいと思います。
城内はからっぽ
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この言葉を言ったのは、昭和12年12月13日に南京城に入った城光宣さんでした。
国際委員会が作った非武装中立地帯「安全区」に住民たちは逃げていたため、兵士も住民もいない無人地帯だったそうです。
南京に進軍している途中でも日本軍は虐殺を行ったとされていますが、城さんによると「女や子供・年寄りの遺体は見たことない」と語っています。
さらに、「30万人も虐殺を行ったというのはでっち上げですたい。人がおらん以上虐殺があるはずがなか」とも話しています。
元陸軍第6師団歩兵第13連隊の伍長・古沢智氏さんは、城内に人影はなく敵兵は1人もいなかった、1人の老婆が紙で作った日の丸で歓迎してくれたと明かしています。
中国人が日本兵に商売
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陥落後、日本兵を相手に中国人が露店で商売を初めているのを、元海軍第12航空隊3番航空兵曹・原田要さんが証言されています。
さらに、他の証言では、以下のようなものもありました。
「入城して3日後ぐらいには、住民の姿も見かけるようになり、3回ほどサイドカーで城内の見回りをしたが、遺体や虐待の痕跡は見ていない。時計の修理で時計屋にも訪れた」
「12月14日ごろには城内に散髪屋や立ち食いそばなどの商売を始めていた」
日本兵の暴行はあった
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ただし、南京陥落後、日本兵が全く犯罪を犯していないわけではありません。
一部の若年将兵が、市民に対して強姦・略奪などの暴行を行ったという事実はあるようです。
しかし、松井大将は、「のちにいわれた大虐殺や集団的な虐殺を行った事実は断じてない」と戦後の東京裁判で語っているようです。
中国兵の犯罪
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南京事件では、日本軍の虐殺行為ばかり話題になりますが、実は、日本兵よりも自国である中国兵が悪事を行っていたという証言もあります。
アメリカのティルマン・ダーディン記者の証言では、
南京へ向けての15マイルにわたる農村地区で、ほとんどの建物に火がつけられ村が焼き払われた。中山陵園内の兵舎・邸宅・近代化学戦学校・農業研究実験室・警察学校などの施設が灰に帰した。これはすべて中国軍によって行われ物質的損害は2000万ドル~3000万ドルに上ると計算されている。日本軍が何か月も行った南京攻略の空襲よりも損害が大きい。
戦線で任務に就いていた方の奥さんへの手紙では、
支那兵は、悪いことをするものという考えがある。支那兵は毎日食べ物をもらいに来る。そして応じなければ銃殺されることもある。税金もむやみに取り、出さないと女子供を人質に取る。だから初めは日本兵から逃げていたが日本軍は税金もとらないし品物もかってくれることから、最近は評判がいい。
南京アメリカ領事館副領事のジャームズ・エスピーの報告では、
日本軍入城前の最後の数日間は、中国軍によって市民と財産に対する侵犯が行われた。気も狂わんばかりになった中国兵が、軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとしていた。その服の欲しさに殺人まで行っていた。
と、北京陥落時の中国兵の行動について書かれています。
まとめ
今回は、南京事件について大虐殺の嘘や捏造の画像・真実や死者数さらに原因などをできるだけわかりやすくまとめて紹介しましたが、いかがでしたか?
歴史は勝者によって作られるとよく言われますが、南京事件も勝者の裁判によって裁かれています。
日本軍による蛮行がなかったわけではありませんが、写真の捏造などを見ると、言われているような虐殺があったというのを全部信じるのもどうなのかと思ってしまいます。
もし、今回調べた証言が真実だとしたら、世界的に嘘が通っていることが日本人として悔しく思うと同時に、何かできることがないか、考えなければならない時ではないでしょうか。