中国四大美人

中国の四大美人~西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃の美女画像や生い立ち&人物像まとめ

中国の歴史上最も美しいとされる4人の美女を「中国四大美人」と呼びますが、一般的に西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃が挙げられます。

 

この記事では、この中国四大美人について生い立ちから人物像まで詳しくまとめました。

「中国四大美人」の成り立ちについて

「中国四大美人」は入れ替わることもある

一国の運命を左右させた4人の絶世の美女

 

一般に広く知られている「中国四大美人」と呼ばれる中国歴史上の女性は以下になります。

西施(春秋時代)
王昭君(前漢)
貂蝉(後漢)
楊貴妃(唐)

 

ただ、媒体によっては王昭君と卓文君(前漢)を入れ替えたり、貂蝉と虞美人(秦末)を入れ替えることもあります。

 

卓文君(前漢)

 

虞美人(秦末)

 

ここでは一般的に知られる西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃の4人の美女についてご紹介していきます。

 

 

「中国四大美人」は四字熟語に当てはめられる

 

絶世の美女を表す四字熟語「沈魚落雁」「閉月羞花」

 

この四字熟語が画題にされる時、「沈魚美人」「落雁美人」「閉月美人」「羞花美人」の4つに分けられ、それぞれに西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃が当てはまります。

 

4人とも一国の運命さえ変えてしまった絶世の美女ですが、俗説では4人にはそれぞれ一点ずつ欠点があったと伝えられおり、完璧ではないところに人間らしさを添えています。

 

それでは、四字熟語「沈魚落雁」の”沈魚”に当てはまる西施からご紹介していきます。

 

 

「中国四大美人」西施の生い立ちや人物像について

「中国四大美人」”沈魚美人”と呼ばれる西施

一国を滅ぼす政略の道具にされた村娘の西施

 

西施の本名は「施夷光(し いこう)」で、中国では西子とも伝えられており、紀元前5世紀頃の春秋時代末期の諸曁(現・浙江省紹興市諸曁市)の苧蘿村で生まれました。

 

苧蘿村には東西に分かれて2世帯の施姓の家族が住んでいましたが、西施は西側に住んでいたためその名前で呼ばれるようになりました。

 

【沈魚美人の語源と西施の欠点】

西施は貧しい薪売りの娘として生まれましたが、紗(薄い絹)を川で洗濯をする姿に泳いでいた魚が泳ぐのを忘れるほど見とれてしまったことから「沈魚美人」と呼ばれています。

俗説では、西施の欠点は大根足であり、足を隠すために常に長い衣を身につけていたとされています。

なお、「沈魚美人」と最初に呼ばれたのは毛嬙(もうしょう)でした。

 

大根足だったとされる西施ですが、一説では西施が普段出さない足を出して洗濯していたため魚たちが見とれてしまったとも言われています。

 

西施は貧しい村民で服は埃をかぶり、髪はボサボサでも色褪せない絶世の美女だったとされ、村の男たちはその美貌をひと目見ようといつも集まってきていたと言われています。

 

「中国四大美人」西施を真似た東施

故事成語「顰に倣う(ひそみにならう)」の語源

 

文献『荘子・天運』によれば西施は時折に胸の痛みに苦しむ持病を抱えていたとされています。

 

そのため、ある日西施が発作を起こして顰(眉間)にしわを寄せて胸に手を当て苦しんでいたところ、その姿がか弱く儚い美しさを見せていたことから、村の男たちはそうして歩いてくる西施に釘付けになっていました。

 

そして、村の東側のもうひとつの施家に醜女(しこめ)が住んでいましたが、西施がそうして苦しそうに歩く姿が男たちの視線と捉えて離さないことから真似をするようになりました。

 

しかし、この醜女は男たちの視線を自身に向けさせるために大げさに振舞っていたところ、醜い顔がより醜くなり、男たちは嫌がって家の戸を閉め、家を持たない貧乏人は妻や子供を連れて遠くに逃げるという有様でした。

 

「東施」と呼ばれたこの醜女は、この様相から後に”醜女が美女を真似して顰(眉間)にしわを寄せる猿真似”という意味の「東施效颦」という四字熟語や、”むやみに人の真似をするのは愚かなこと”という意味の「顰に倣う(ひそみにならう)」という故事成語が生まれました。

 

 

「中国四大美人」西施は政略に利用された

西施の美しさは一国を滅ぼす策略に使われた

 

西施が日課の川での洗濯をしていると、村の噂を聞きつけた復国を目指していた越国の王・勾践(こうせん)が召抱え、他の美女らと共に敵対する呉国の王・夫差(ふさ)に献上しました。

 

すると勾践の策略は見事にハマり、夫差は西施をはじめとした美女らにうつつを抜かすようになり、急速に国力が弱体化したところで勾践の越国に滅ぼされてしまいました。

 

中国春秋時代の話ですが、為政者が美女を使って他国をたぶらかすこのエピソードが、中国における初のハニートラップだとも言われています。

 

「中国四大美人」西施の最期

西施は非業の死を遂げた?

 

文献では呉国が滅びた後の西施の生涯について書かれていませんが、俗説によれば勾践夫人が西施の一国を滅ぼした美貌を恐れて、勾践が西施を取り戻さないように家来に捉えさせて生きたまま皮袋に入れて長江に投げ入れて殺したとされています。

 

西施の死後、長江では蛤がよく獲れるようになったことから、人々は「蛤は西施の舌」だと噂をするようになり、その後中国では蛤をそう呼ぶようになりました。

 

また別の俗説によれば、西施は美女献上の際の世話役をしていた范蠡に連れられて越を出奔し、穏やかに生涯を過ごしたともされています。

 

その後、日本でも西施の話は芸術作品に取り入れられるようになり、有名なところでは松尾芭蕉が奥の細道で詠んだ俳句「象潟や雨に西施がねぶの花(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)」

 

次は西施と合わせて四字熟語「沈魚落雁」の”落雁”に当てはめらる王昭君についてご紹介します。

 

 

 

「中国四大美人」王昭君の生い立ちや人物像について

「中国四大美人」”落雁美人”と呼ばれる王昭君

モンゴル遊牧民族「匈奴」の妃となった王昭君

 

王昭君は姓を王、諱(いみな)は檣、字を昭君といい、紀元前1世紀頃に荊州南郡秭帰(現・湖北省興山県)で生まれました。

 

民間から召抱えられて漢の後宮に入った王昭君ですが、モンゴル高原の遊牧民族「匈奴」が漢の朝廷に政略結婚を持ち掛け、漢はこの異民族の懐柔策として後宮の女性を下賜することが決まったことから、王昭君は漢の代表として匈奴の君主である呼韓邪単于、復株累若鞮単于時代のそれぞれの閼氏の妻となった人です。

 

【落雁美人の語源と王昭君の欠点】

王昭君は匈奴へ向かう旅の途中に、生まれ故郷の方角へ飛んでいく雁を眺めながら、望郷の念に駆られて琵琶をかき鳴らしました。

すると、王昭君のあまりに美しすぎる美貌と、悲しい旋律に酔いしれた雁が次々と落ちてきたことから「落雁美人」と呼ばれています。

俗説では、王昭君の欠点は撫で肩だったと言われています。

なお、「落雁美人」と最初に呼ばれたのは秦の始皇帝の妃となった麗姫です。

 

現代までに描かれてきた王昭君の「昭君出塞」の絵図では必ず琵琶を持ち、毛皮付きの服やフード付きの服を着ていることが多く、馬やラクダに乗っています。

 

しかし文献「漢書」などによれば、王昭君が琵琶を弾いていたという記述は無く、西晋時代の傅玄による文献「琵琶賦」に書かれていた、烏孫公主のために琵琶を作ったという古老の話があり、これが王昭君のエピソードにすり替わったと言われています。

 

王昭君は匈奴に嫁いで一男をもうけましたが、呼韓邪単于が早くに死亡したため、匈奴の慣習に従って義理の息子である復株累若鞮単于の妻になり二女をもうけました。

 

しかし、漢ではこの夫の息子と結婚することが近親相姦に相当する不道徳で汚らわしいものだと思われていたため、王昭君にとっては屈辱的なことであり、そうした身の上の悲運が後の中国で悲劇的な美女として見られるようになりました。

 

「中国四大美人」王昭君という絶世の美女を逃した元帝

漢の元帝が絶世の美女・王昭君を匈奴に贈った理由

 

当時、多くの民間の美女が召抱えられて宮廷に入り宮女となっていましたが、その中から特に美貌と器量を持つ女性が皇帝の妃に選ばれます。

 

しかし、その候補があまりに多かったことから多忙な皇帝が一人一人会って選ぶことは困難で、そのため本人そっくりに描くことができる卓抜した腕を持つ宮廷絵師が似顔絵を描いて皇帝に献上していました。

 

ある日、匈奴の王である呼韓邪単于が元帝の宮殿に来訪した際、呼韓邪単于が政略結婚を持ちかけてきたため、元帝は宮女たちの似顔絵の中から最も醜い女を送ることにしました。

 

これが宮廷で最も絶世の美女だった王昭君でしたが、実は王昭君は絵師の毛延壽(もうえんじゅ)に賄賂を贈っていなかったため酷く醜く描かれてしまったことが原因でした。

 

匈奴に嫁ぐことになった王昭君は元帝に別れの挨拶をするための式に出席しましたが、その場で本物の王昭君を見た元帝は、あまりの美しさに仰天してしまいました。

 

しかし、すでに呼韓邪単于には王昭君を贈ることを約束してしまっていたため、急遽取りやめすることは関係の悪化に繋がるため出来ず、元帝は怒りと悔しさを噛み締めながら王昭君を匈奴に送り出しました。

 

似顔絵と実物が全く違っていたことに腹を立てた元帝は絵師たちを調査させると、絵師たちが宮女から賄賂を取り立てて似顔絵に反映させるという不正が発覚しました。

 

これに激怒した元帝は毛延寿を含む絵師ら全員を斬首の上さらし首にしました。

 

このエピソードは王昭君を語る上で有名ですが、前漢末期の文献「西京雑記」に初めて描かれた話であり、この文献は史実というよりも大衆小説に近かったことから創作だと言われています。

 

 

「中国四大美人」王昭君が匈奴に嫁いだ本当の理由

王昭君は自ら匈奴に嫁いで行った?

 

似顔絵師の不正のエピソードは読み物としては面白くても実際には疑問の大きい話で、当時の匈奴は漢にとって唯一対等な勢力として最も重要な外交国だったにも関わらず、その国王に対して宮廷で最も醜い女を贈るとは到底思えなかったと言われています。

 

そのため、王昭君がどのような経緯で匈奴に嫁いだかという史実は詳しくは明かされていませんが、いくつかの文献によれば、王昭君は後宮に入ったものの元帝からの寵愛を受けることが無かったため、怨みから誰もが行きたがらなかった匈奴への政略結婚に志願したと言われています。

 

「中国四大美人」王昭君の最期

 

王昭君は自ら命を絶った?

 

王昭君は呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣に倣い、義理の息子に当たる復株累若鞮単于の妻になって二女を儲けたと言われていますが、俗説では義理でも子との結婚は屈辱的であり拒否するために服毒自殺したと言われています。

 

そのため、王昭君の物語は漢王朝と異民族との間で翻弄された薄幸の美女として描かれることが多いようです。

 

次は四字熟語「閉月羞花」の”閉月”に当てはまる貂蝉についてご紹介します。

 

 

 

 

「中国四大美人」貂蝉の生い立ちや人物像について

「中国四大美人」”閉月美人”と呼ばれる貂蝉

貂蝉は「三国志演義」上の架空の人物

 

貂蝉といえば「三国志演義」で有名ですが、正史には登場しない架空の人物です。

 

貂蝉が登場するのは「三国志演義」第8回からで、元々幼少期に闇市場で売られていた孤児であり、他の子供と一線を画す美貌から通りかかった魏国の大臣・王允が引き取り、実の娘のように可愛がって数多の諸芸を学ばせて育てました。

 

その頃、魏国では北方の遊牧民族・羌族と友好関係を持ち辺境の涼州将軍として名を馳せた悪臣・董卓が朝廷を牛耳って悪逆の限りを尽くしており、それを見かねた忠臣・王允が董卓を誅殺をするべく当時16歳だった養女の貂蝉を送り込み、董卓とその養子関係を結んでいた天下の猛将・呂布と決別させる計画を実行しました。

 

【閉月美人の語源と貂蝉の欠点】

王允は貂蝉の取り合いをさせて董卓と呂布を決別させることに成功し、董卓の誅殺に成功しました。

この時、天下の大仕事を請け負った貂蝉は憂いから物思いに耽るようになり、その姿のあまりの美しいことから、月ですら恥ずかしがって雲に隠れてしまったと言われたことから「閉月美人」と言われるようになりました。

なお、俗説では貂蝉の欠点は耳の小さいことだとされています。

 

また、逆に俗説では貂蝉は美人どころか醜女であり、王允が魏国一の天才医師の華佗にそのことを相談したところ、華佗は保管していたおいた西施の首と貂蝉の首を取り替え、絶世の美女になったにも関わらず計画を実行できない小心者の貂蝉に、今度は鉄の心臓を持つ暗殺者・荊軻の肝と交換したというファンタジーならではのエピソードもあります。

 

人気漫画「蒼天航路」の貂蝉も、元々一重まぶたの暗い表情をした醜女で王允を悩ませていましたが、育ての親である王允への恩に報いるため、董卓の誅殺計画に向けてナイフで一重まぶたを切って二重まぶたにし、自ら瞬間的に整形をして美女になるという面白いエピソードがあります。

 

「中国四大美人」貂蝉は”連環の計”の立役者

「三国志演義」のみどころ「連環の計」

 

王允の計画は、まず貂蝉を呂布に謁見させて一目惚れをさせ、その後に董卓に謁見させてそのまま貂蝉を献上し、「話が違う」と激怒した呂布に「董卓様には逆らえない」と言い繕って、呂布の董卓への信頼を揺らがせることから始まりました。

 

そして、董卓に隠れて貂蝉を呂布と何度も密会させ、「董卓の元にはいたくない。呂布様の元にいたい」と貂蝉は涙を見せて呂布の心を揺るがし続けました。

 

この貂蝉と呂布の密会は王允の指示により董卓の耳に入るようにしたため、董卓は義理の息子とはいえ呂布に対して激怒しましたが、事態を冷静に見ていた腹心の李儒の進言により、董卓は怒りを鎮めて貂蝉を呂布に送ろうとしました。

 

しかし、貂蝉は董卓に「乱暴者の呂布の元へは行きたく無い」と懇願したことで董卓は送るのを止めてしまい、それに激怒した呂布は王允にそそのかされてついに董卓を殺害してしまいました。

 

絶世の美女である貂蝉を董卓と呂布の間に置くことが「美人計」、そして貂蝉がふたりの心をたぶらかすことで信頼関係を断ち切ったことが「離間計」であり、これら二つを合わせた王允の計略は「連環の計」と呼ばれ、「三国志演義」の中で盛り上がるエピソードのひとつとなっています。

 

「中国四大美人」貂蝉のモデルとなった人物

貂蝉のモデルは史書「三国志」の董卓の侍女だった

 

史書「三国志」においては、呂布が董卓の侍女と密通しており、発覚することを恐れて王允に相談したところ、董卓を打つしかないことを伝えると呂布は本当に実行に移したというくだりがあります。

 

この呂布が入れ込んでいた董卓の侍女が貂蝉のモデルになっていると言われています。

 

誰もが屈していた暴君・董卓を打つきっかけを作った美女として、貂蝉は架空の人物ながら中国四大美人に数えられるようになりました。

 

「中国四大美人」貂蝉の最期

中国四大美人

出典:ここにURLを入力

貂蝉は非業の死を遂げる最期が多く描かれる

 

董卓の死後、貂蝉は呂布の妾となったものの子供を授かることはありませんでした。

 

「三国志演義」の第16回「下邳の攻防戦」では軍師・陳宮の進言により出陣しようとした呂布を貂蝉は引き止めましたが、下邳陥落後の生涯については描かれていませんでした。

 

以降の三国志を題材にした作品では、その後曹操と関羽が貂蝉を巡って争うことになり、その中で我を忘れかけていた心の動揺を断ち切るために関羽が貂蝉を斬るという最期もあります。

 

また、吉川英治の小説「三国志」を原作とした横山光輝の漫画「三国志」においては、「連環の計」で董卓を打った後に人生の目的を果たしたとして貂蝉が自害するという終わり方にしています。

 

園田光慶と久保田千太郎による漫画「三国志」では、董卓を打った後その配下を一掃しようと呂布が奮迅するその目の前で貂蝉が残党に殺されるという終わり方にしています。

 

次は貂蝉と合わせて四字熟語「閉月羞花」の”羞花”に当てはまる楊貴妃についてご紹介します。

 

 

 

「中国四大美人」楊貴妃の生い立ちや人物像について

「中国四大美人」”羞花美人”と呼ばれる楊貴妃

 

美貌で玄宗皇帝を腑抜けにした傾国の美女・楊貴妃

 

楊貴妃は719年6月22日(開元7年6月1日~756年7月15日に生きた中国・唐の時代の皇妃で、姓は楊、名は玉環といい、貴妃は皇妃としての順位を表す称号でした。

 

唐の皇帝・玄宗の寵愛を一心に受け、入れ込みすぎるあまり国の均衡を崩し、国が滅びた「安史の乱」を引き起こしたため楊貴妃は「傾国の美女」と呼ばれます。

 

【羞花美人の語源と楊貴妃の欠点】

楊貴妃は皇帝・玄宗の寵愛を一身に受けて宮廷内での権力を欲しいままにしたため、地位が危ぶまれた安禄山が「安史の乱」を起こしました。

唐は滅ぼされて燕の国が興り、楊一族は亡命する際に恨みを買った兵士らから殺害され、楊貴妃も首を括られました。

楊貴妃が後宮内を散歩すると、庭の花がその美貌と体から発される芳香に気圧されて萎んだことから「羞花美人」と言われるようになりました。

なお、俗説では楊貴妃の欠点は腋臭だったと言われています。

 

古くから残されてきた壁画などに描かれた楊貴妃を見る限り、比較的豊満な女性だったと見られており、音楽や舞踊などさまざまな高い教養を持った才女だったと言われています。

 

「中国四大美人」楊貴妃が皇妃になるまで

中国四大美人

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名家で生まれ育った楊貴妃

 

楊貴妃は中国三国時代に劉備玄徳が建国した蜀国の出身で、本籍は蒲州・永楽にあったと言われています。

 

司戸の楊玄琰の四女として生まれましたが、幼少期に両親を失ったため、叔父の楊玄璬の家に預けられて育てられました。

 

俗説として、楊貴妃は生まれながらに玉環を持っていたことから”玉環”という名前が付けられたという説や、あまりに美しく芳香を纏っていたことから楊玄琰に高値で売られたという説もあります。

 

文献「定命録」によれば、楊貴妃がまだ蜀で暮らしていた頃に、張という山に住む隠士が楊貴妃の人相をみて、「将来、皇后に並ぶ尊貴を持つ大富、大貴になるだろう」と予言し、さらに楊貴妃の従兄弟の楊国忠の人相を見ると「将来、朝廷の権力を何年も握るだろう」と予言しそのとおりになりました。

 

楊貴妃は735年に皇帝・玄宗と皇妃・武恵妃の間の息子である寿王李瑁の妃となり、740年に玄宗の寵愛を受けて長安の東にある温泉宮で一時的に皇妃と同じ扱いを受けていました。

 

そして745年に正式に皇妃に取り立てられましたが、楊貴妃が26歳の時でした。

 

「中国四大美人」楊貴妃の容姿について

楊貴妃は唐時代に好まれた豊満な美女だった

 

唐時代では豊満で女性らしい容姿が好まれましたが、楊貴妃はまさにそうした体型をした絶世の美女だったと言われています。

 

美貌以外にも琵琶や歌、舞踊など高い教養にも恵まれていたため皇帝・玄宗が国政を蔑ろにしてまで虜になってしまうのも無理はありませんでした。

 

その華やかで愛らしい容姿から後宮内では「娘子」と呼ばれ、文献「長恨歌伝」によれば長い黒髪は艶やかで、肌は白くきめ細かく、体型はほどよく豊満で、とても柔らかい物腰をした女性だったと描かれています。

 

また文献「長恨歌」によれば、「後宮佳麗三千人、三千寵愛在一身」と書かれており、これは後宮内にいた3千人の宮女の中で皇帝・玄宗の寵愛を3千人分を一身に受けていたということで、どれだけ楊貴妃が際立った存在だったかがわかる記述をされています。

 

 

「中国四大美人」楊貴妃の最期

楊貴妃は兵士の憎悪を買って無残に殺された

 

楊貴妃が皇妃となって約10年となる755年に、玄宗の忠臣で楊貴妃の従兄弟である楊国忠と激しく対立していた安禄山が地位を危ぶんだことで安史の乱を起こしました。

 

楊貴妃に掻き回され弱体化していた洛陽は陥落し、要となる潼関も陥落したことから、玄宗は首都・長安から脱出して蜀へ亡命することを決め、楊貴妃や楊国忠ら忠臣を引き連れて出奔しました。

 

しかし、国を滅ぼすきっかけとなった楊一族に対して強い恨みを持つ兵士たちは、亡命の道中で楊一族らを尽く殺害しました。

 

玄宗は兵士らに対して必死に楊貴妃を謀反と関係無いことを擁護しましたが、兵士らは聞き入れ無かったため、窮地を脱するために高力士が楊貴妃に自殺させるように進言し、玄宗は苦渋の決断を下しました。

 

文献「楊太真外伝」によれば、楊貴妃は全てを受け入れ、「国の恩に背いたのは間違いなく、死んでも恨みません。しかし、最後に仏を拝ませて欲しい」とお願いし、その後高力士により首吊りをさせられました。

 

前述では楊貴妃は兵士に首を括られて殺害されたと書きましたが、俗説により諸説あるようで、こちらが一般的なようです。

 

この時、楊貴妃は37歳だったと言われていますが、命が助かった俗説では楊貴妃は兵士らの追っ手から逃れ、国内に住むことができなくなったため日本やアメリカに亡命したという説もあるようです。

 

 

 

「中国四大美人」西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃について総まとめすると

「中国四大美人」と言われる西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃について総まとめしてきました。

 

・「中国四大美人」はいずれも何らかの形で「傾国の美女」となっている

・「中国四大美人」はいずれも最期は非業の死を遂げている

 

こうして4人の「中国四大美人」のエピソードを見てみると、共通しているのは「美人薄命」だということでしょう。

 

多くの男の心を惑わせる美貌を持つということは、それだけ多くの恨みを買うことにも繋がり、「中国四大美人」の4人は死の運命に抗えなかったのかもしれません。

 

 

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